壊れた王のアンビバレント

宵の月

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野良犬

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 俯きがちにアルヴィナは、カーティスの執務室に向かっていた。隔絶された白亜宮から行政区画の翠蒼宮へ足を踏み入れると、空気は一変する。
 アルヴィナに礼を取りながら盗み見する視線。通り過ぎたあとに交わされる、潜められた囁き声。
 ひと月が過ぎても、王宮は側妃を巡るざわめきは落ち着くことはなかった。
 
 美貌を……リーベンが……王妃は……閨の……フォーテル……

 いくつもの単語を胸に収めても、アルヴィナは表情を変えず、一定の歩調を保ったまま歩き続ける。アルヴィナは執務室に通う日々を経て、ダンフィルの情勢をある程度把握していた。

 (素早い平定が国民の王家への信頼を回復させた……)

 カーティス即位から、急速に治安は回復した。街の状況からも明らかで、国民の王家への不信は解消されている。

 (それなのにあまりにも乖離している……)

 国民の信頼は回復しているにも関わらず、国民と貴族の認識はあまりにもかけ離れていた。
 一定の安定を保つ情勢でも、王宮内は濃く悪意と謀略、嫉妬と疑心が渦巻いている。
 まるでキロレスの薬物名鑑で見た、蠱毒のように。

 暴君……狂王……

 時々カーティスを評するさえずりに、アルヴィナの不安が煽られる。さえずるのはベルタング寄りの貴族たちで、カーティスの変貌がそう言わせるのか、それとも……。
 先導するノーラの背中に、アルヴィナは足を止めた。緊張を滲ませているノーラに、アルヴィナは顔をあげ息を飲んだ。
 背後でマルクスもまとう空気を鋭くする。

 「寵姫アルヴィナ様へ、ご挨拶申し上げます。」

 炎のような赤毛に震えだしたアルヴィナを、そっとマルクスが支える。
 丁重に見えて角度の浅い礼をする琥珀の瞳が、嘲るように細められた。
 ぐっと力がこもったマルクスの腕に励まされ、アルヴィナは必死に声を押し出した。

 「………ご機、嫌よう。メナード・ベルタング侯爵。」

 微かに震えるアルヴィナの声に、メナードは口元に嗜虐の笑みを浮かべる。

 「我が妹に聞いた通り、風雪に容易く手折られそうなたおやかさ。噂に名高いは噂以上にお美しい。陛下の眩い寵愛も納得です。」
 
 にいっと唇を吊り上げたメナードに、必死に唇を動かすも、恐怖に引攣れた喉からは声は出てこなかった。

 「確かにダンフィルでも轟いたアルヴィナ妃の知性と美貌は、リーベンさえも魅了したそうですね。未だにリーベンのパレードが語りぐさとなっているとか。」

 背後で口を開きかけたマルクスを、朗らかな声が遮った。

 「自ら風雪を起こしそうな、健康的な王妃とは真逆ですな。メナード卿?」

 ギリッと音がしそうなほど歯を食いしばり、メナードがエクルドを睨みつけた。

 「………エクルド・レジスト侯爵……」

 庇うように隣に立ったその人を、アルヴィナは呆然と見上げた。エクルドは優しく瞳を和ませて微笑んだ。

 「お久しぶりです、アルヴィナ妃。陛下がお待ちなのでは?」
 「それは……」
 「早く行かれるがよろしいでしょう。」
 
 エクルドの笑みを見つめ、アルヴィナは言いかけた言葉を飲み込んだ。

 「では、私はこれで。」

 アルヴィナは瞼を伏せるとそのまま足を踏み出した。まだ震える足は、エクルドのおかげでだいぶ力を取り戻していた。

 「アルヴィナ妃!王宮には野犬が数匹うろついております。」

 歩き出したアルヴィナに、メナードがねっとりと絡みつくように声をかけた。ぴくりとアルヴィナは、こめかみを震わせ足を止めた。

 「飼い犬でも野良犬でも犬は犬。あまりにも誰彼構わず吠えるのですよ。王妃にさえね。
 噛みつこうとした犬が処分されてからは、随分と大人しくなりましたが。
 アルヴィナ妃、すり寄る犬に情がわいてもやがて処分される犬です。捨ておくのが賢明ですよ。」

 ゆっくりと振り返ったアルヴィナに、メナードが笑みを刻む。燃え上がるような赤毛に、アルヴィナは初めて恐怖以外の感情がわき立つのを感じた。手に持った扇の柄を握りしめる。

 「………狩猟の成否は賢い猟犬が決めるもの。」

 笑みが消えたメナードは、探るように瞳を険しくした。

 「質のいい猟犬ならば、大きな獲物の痕跡までつぶさに嗅ぎ分け、見つけ出すものです。」

 そのままアルヴィナは踵を返して歩き出した。貴族名鑑に残されていた家門が、いくつも頭を過ぎる。
 立ち去るアルヴィナを睨みつけ、メナードはエクルドに一瞥もせずその場を歩き去った。

 「マルクス、ノーラ。」
 「「はい。」」
 「……いえ、何でもないわ。」

 一瞬にして燃え上がった怒りを、マルクスとノーラの声がかき消した。

 (捨て犬などと侮られるのは、フォーテルの……いいえ、私のせい……)

 文字通り尻尾を巻いて逃げ出したのは、他でもなく自分。すべての権利も義務を放棄した。侮辱に怒る権利さえも。

 (お父様……)

 高潔だった父の背中を思い出し、アルヴィナは唇を震わせる。父に亡命を選択させたのは自分だ。食事も水も口にできないほど、悪意に怯えた自分。そんな娘にあの父が、何もせずにいられるわけがない。
 ベルタング家は噛み付いたと処分し、吠えかかるからと権勢をちらつかせる。かつての友人たちが託つ不遇を、父はどう思うのだろうか。

 密やかな囁きと、さえずる貴族達の言葉。最後の一匹になるまで潰し合う、悪意に染まった蠱毒のような王宮。
 生き残った蠱はどれほどの毒を得るのだろうか。

 (私は……)

 惑って揺れる胸を押さえながら、アルヴィナは目の当たりにした現実に立ちすくむ事しかできなかった。
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