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帰還準備
しおりを挟むソファーでふらりと身体が傾ぎ、アルヴィナは思わず手を着いた。その様子をトゥーリが気遣わしげに見つめ、カーティスを非難の眼差しで睨む。
「カーティス、アルヴィナ妃の体調もある。2日後は無理だ。熱が落ち着くまで延期しろ。」
「無理だ。キリアン、最等級の回復薬を手配しろ。」
「はい。」
「カーティス!」
抗議の声を上げたトゥーリをじろりと見遣り、カーティスは署名の終わった協定書をトゥーリに放る。
「トゥーリ、ダンフィル側妃への行き過ぎた配慮に感謝するが口出しは無用だ。」
「……グレアム大公家の養女でもある。僕のいとこだ。」
「……ハッ!アルヴィナ、2日後に出立する。それまで療養を命じる。寝室から出るな。」
「……はい。」
「アルヴィナ妃!無理をすることはない!そもそもこの男のせいだろう!」
「……トゥーリ殿下。お気遣い感謝いたします。」
小さく笑みを浮かべて礼を伝え、アルヴィナは書面に視線を落とした。そのままそっと手に取って、顔を上げる。
「ですが、陛下の言に従います。……おそらくはもうすでに予定を超過させてしまっているかと。これ以上の延期は国益に関わります。」
そのまま書面に目を落としたアルヴィナは、トゥーリとキリアンが驚いたように見詰めていることに気付かなかった。カーティスが僅かに満足げな笑みを浮かべる。
「アルヴィナ、下がっていい。」
「はい。」
侍女に付き添われてアルヴィナが退出した室内に、トゥーリのため息が落ちた。
「……アルヴィナ妃はこの書面だけで気付いたのか?」
「アルヴィナはフォーテル公爵の薫陶を受けている。」
「まさかダンフィルの情勢も分かっているのか?」
「正確ではなくともある程度の見当はついているだろう。」
「挨拶もそうだったけどさ。本当に聞きしに勝る、だな。美しい上に聡明だ。僕の正妃に迎えればよかった。……冗談だ。」
カーティスからの冷ややかな視線に、トゥーリが肩をすくめる。《ダンフィルの悪夢》から随分変わってしまった幼なじみ。それでも在りようが変わってしまっても、未だに変わらないものもある。
トゥーリは表情を改めると、カーティスが放り投げた協議書に向かい合った。
※※※※※
ノックの音にアルヴィナは寝台から身を起こした。ジェリンを伴ったキリアンが入ってくる。ジェリンは無言で近づくと、身を起こしたアルヴィナの肩にストールをそっと掛けた。
「ありがとう。」
「最等級の回復薬をお持ちしました。そちらの医師の立ち会いのもと服用してください。」
「はい。」
そのまま黙り込んだキリアンは、意を決したように顔を上げた。
「なぜおわかりになったのですか?」
「え?」
「予定の遅延と延期ができないこと。なぜ分かったんですか?」
「…………キロレスの公示を受けてのリーベンとの同盟強化。キリアン卿が婚姻の理由の1つとして挙げていました。
ですが予定では、リーベンでは国境までのパレードだけで式は行われません。関係強化の対外的なアピールに最も効果的な式を行わないほど、ダンフィルへの帰還を急いでいる。」
「………」
「情勢の安定は国民レベルの話しで、貴族階級はまだ落ち着いていないと推測しました。今回の来訪にセレイア妃はいらしていません。………玉座を長く空けられないのだと……」
最後を躊躇いながら口にしたアルヴィナに、キリアンは拳を握った。
「……その通りです。貴女ならリーベンでも断片的な情報から、ある程度予測されていたのでしょうね。」
「……何もかも分かっていたわけではありません……分からないことのほうがずっと多く……」
「それなのに貴女はっ……!!」
「キリアン卿!アルヴィナ妃には安静が必要です!」
「………っ!!」
ジェリンの制止にキリアンは、歯を食いしばった。必死に出かかった言葉を飲み込んで、礼をして出ていく。その背を見詰めるアルヴィナを、ジェリンはそっと撫でた。
「アルヴィナ妃、こちらをお飲みいただいて、今は何も考えずお休みください。」
「……はい。」
差し出された薬瓶を飲み干し、アルヴィナはジェリンに促されて横になる。ジェリンが退室する扉の音を聞きながら、アルヴィナは息を深く吸い込んだ。
《それなのに貴女はっ……!!》
キリアンの怒りに燃える声が蘇り、アルヴィナはきつく瞼を閉じる。
考えなかったわけではない。父も母も亡くなり、このまま1人リーベンに居続ける意味を。それでも赤い唇を思い出すと足がすくんだ。
必死に王国の悪夢を振払おうと、カーティスは《ナイトメア》の出所を探っていた。細い糸を手繰って、ベルタング家からはナイトメアの被害者が出ていないことを掴んでいた。
カーティスは分かっていた。その上でセレイアと婚姻を結んだ。だからきっと何か考えがあるんだと……。
「お父様……お母様……」
震える手を握りしめ、アルヴィナは助けを求めるように小さく呟いた。
目を背けて考えないようにしていた。自分が目をそらして過ごしてきた時間を、彼らはどう過ごしてきたのか。本当にアルヴィナが自分に言い聞かせていたように「大丈夫」だったのか。
目の当たりにしたカーティスの変貌が、キリアンの怒りの声が、罪悪感を抉る。
嗚咽を押し殺して、アルヴィナは静かに涙を流し続けた。
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