聖騎士様の信仰心

宵の月

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第一章 聖騎士様の信仰心

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 眼裏に感じる眩しさを避けるように、アンナは寝返りを打った。重い瞼をこじ開けるよりすぐそばに感じる、心地よい体温にすり寄りかけて動きを止める。慌てて飛び起きたアンナは、思わず上げかけた悲鳴を、何とか両手で押さえてかみ殺す。

(リュ、リュ、リュカ!!)

 すり寄ろうとしていた隣の体温は、朝日に美貌を惜しげもなく晒して眠っている。輪郭のディテールすらも繊細で、柔らかな朝日に淡く溶けて息を呑むほど美しい。

(……わ、私……)

 シーツに埋もれる裸体は美貌に相応しく完璧で、否応なく昨夜の狂乱を思い起こさせた。知っていたはずの営みは、知っていたはずのものより熱く、情熱的でひどく甘かった。熱病に犯されたような一夜。ドクンと心臓が肋骨にぶつかった。
 色んな事が立て続けに起きて、真っ白になったまま押し流されてしまった。朝を迎えてさえ、どうしたらいいのか分からない。思考は今も空回りしているのに、次々と蘇る昨夜の記憶に、鼓動だけは速度を勝手に上げていく。

「……っ!?」

 自分の頬が熱くなることに焦って、アンナは急いでベッドから降りた。慌てて身支度を整えて、恐る恐る振り返る。すやすやと天使の寝顔のリュカエルは、起きる様子がない。
 静かに毛布を引き寄せ、そっとリュカエルに掛け直す。そのままアンナは振り返らず、燃えるように熱い頬を押さえながら、逃げるように部屋を後にした。

「……ふふっ。本当にかわいいなぁ……」
 
 人生の中で最も素晴らしい朝を、寝たふりで迎えたリュカエルは、こらえきれずくすくすと笑みを漏らして起き上がった。

「これ以上はアンナの許容量を超えちゃうもんね。」

 ふうっとため息と一緒に、隣の体温を抱き寄せるのを堪えた辛さを吐き出した。ごろりと仰向けに転がり、リュカエルはうっとりと天井を見上げる。本当はずっとベッドで過ごしていたかった。逃がしてあげたのは、この先逃がさずにいるためだ。
 強引に迫って奪った男に、それでもそっと掛けてくれた毛布を引き寄せる。毛布に残されたアンナの優しさに、口づけを落とした。どこまでも自分に甘いアンナが、たまらなく愛おしい。

「……ああ、アンナ……大好き……!」

 アンナの香りが残る寝台で陶然と呟きながら、リュカエルはシーツに鼻先を埋めた。

『……愛し子になんてことを……!!』

 聞こえてきた憤然とした怒りの声に、ピタリと動きを止めてリュカエルは視線を巡らせた。

『かわいそうに……混乱して真っ赤だったではないか!! 厚顔なド変態め!!』

 部屋の隅に転がされたアイギスが、ビインビインと悔しそうに刀身を震わせている。

『……くっ!!神よ……申し訳ありません……この身では愛し子を変態から守ることができませんでした……!! どうか破廉恥にもスリップに欲望をぶちまける変態から、愛し子と我が名誉をお守りください……!!』

 呆気に取られたようにアイギスを見つめていたリュカエルは、眉根を寄せると深くため息をついた。のそのそと寝台から抜け出すと、心底嫌そうに顔を顰めて転がるアイギスを拾い上げる。

《―――ああ、神よ……きっと僕はこの瞬間のために生まれてきた……》

 何年も何年も恋い焦がれたアンナとの夜。あまりの幸福感にうっかり信仰心を、持ち直したのが仇になったらしい。最高の朝が台無しだった。ただでさえうるさかったのに、しゃべるとなると最悪だ。もう捨てたい。

「……アイギス」
『……くっ! やっと起きたか変態め!! のんきに寝過ごしおって! 神がどれほど動揺されていると思っているんだ!!』
「動揺? この程度でですか? 何度も言いましたよね? 僕はアンナを必ず手に入れると。」
『だからと言って……!! ん? 我の言が伝わっている、のか……?』
「役立たずでなまくらな上に、察しも悪いようですね。」
『…………っ!! なんと! やっと我の言を解するまでに信仰心を取り戻したか!』
「取り戻す? 何を馬鹿なことを……僕はアンナとの夜が想像以上に素晴らしかったことに、心底満足しているだけです」
『ふん! 信仰心を取り戻さねば、我が言を解することはできない。ようやく神の偉大さと慈悲に目覚めることが出来たのだ』

 フォンフォンと高らかに鳴るアイギスを、リュカエルは容赦なく殴った。

『痛い! 何をする!!』
「うるさいです。黙ってください」
『口で言え! 我を殴るな! 我は誉れ高き神の剣だぞ!!』

 心底うんざりしたように眉を顰め、ぶちぶちと不満を垂れるアイギスを睨めつける。

「うるさく喚くだけだったのが、言葉をしゃべるようになるとより鬱陶しいですね。」
『なんだと!! セクハラ変態聖騎士のくせに!! 下着を贈るだけではなく、贈った下着を盗んで欲望を晴らすなど、聖騎士以前に人としてアウトだ!! 貴様の道徳心はどうなっている!』
「……お黙りください。」

 リュカエルはアイギスの罵倒にだいぶ気分を害した。持ち上げたアイギスをこれでもかと小突き回す。

「必要だからしたのです。そんなことより無駄に話せるようになったのです。今すぐ神へアンナへの寵愛を取り消すようにお伝えください。」
『ぐっ! やめろ! 伝えるわけなかろう! 昨夜の凶行のせいで、神はお心を乱しておるのだぞ? おいたわしい……!!』

 大げさに刀身を震わせるアイギスに、リュカエルは鼻の頭に皺を寄せた。

「……溶鉱炉にぶち込みますよ?」

 地を這う低い声にリュカエルの機嫌を読み取ったアイギスは、誤魔化すようにビリリと震えた。

『……お伝えしても変わらない。貴様とてわかっているだろう? 神が愛した魂に恩寵が与えられる。神が愛したからこそ愛し子となる。愛は簡単にすげ替えられるものではない』
「…………」

 アイギスを睨んでいたリュカエルが、ふっと肩の力を抜きため息を吐いた。濁りなく曇りなきアンナの魂。その美しさは出会った頃から変わらない。優しさと慈愛に溢れ、固く閉ざされていたリュカエルの心さえ溶かしてくれた。どれだけ時が流れても、冷めるどころか募り続ける愛おしさ。わかっている。神はただアンナを愛しているだけだと。

「……僕の方がアンナを愛していますけどね」

 目の前で他の男に奪われてさえ諦められなかった。神もまた愛するがゆえの恩寵がアンナの足かせと分かっていても、あの美しい魂を愛さずにいられないのだろう。矮小な人などでは計り知れない神の御心。思いの有り様は天と地ほども違うのだろう。それでお許せない。神のアンナへの寵愛は深い。深いほど宿る加護は強くなる。利用価値は上がっても、人としての幸福は遠ざかるのだから。

『……神も心を痛めている……』

 愛する子だからこそ、その幸を願うほどに加護が宿る。幸せを願った。それが悉くリュカエルの思いを裏切るものだとしても。顔を背けて、唇を噛みしめる。握った拳が震えた。

「……結婚を、許すべきじゃなかった……!!」
『……神は幸せを願った。決して……!!』
「僕のアンナだったんだ……!!」

 リュカエルは激高して、アイギスを寝台に投げつけた。手のひらに顔を埋め、目の前で燃え上がった祝福の金色の炎の記憶に歯を食いしばる。一点の曇りなき愛。神が認めるほど、ジェンスはアンナを愛していた。でもそれが何だというのだ。

「僕の方が愛していたんだ……」

 ただ成人していなかっただけで。婚姻申請が許される年齢に達していなかっただけで。

『……代行者。貴様はエリスコア家の最後の……』
「黙れ!! 血脈の継承なんてどうでもいい!!」
『…………』

 リュカエルの食いしばった嗚咽に、アイギスは押し黙った。押し殺した慟哭は聞く者の心を抉るほど、深い悲しみと怒りに満ちていた。神が婚姻を許さなければ、昨夜がアンナの初めてだったはずだ。明らかに男を知るアンナの反応に、どれほど嫉妬に狂ってももう取り返しはつかない。リュカエルは深く息を吐いて、ゆっくりと顔を上げた。

 ―――神よ、人を愛し信じるがゆえに蒙昧な神よ。善意を好み、慈愛を旨とする愚かな神よ……

「……僕がアンナを手に入れます」

 何をしても。どんな手を使っても。叶わないのなら、生きていることに意味はない。

『代行者! 貴様とて分かっているはずだ! 愛し子とは……』
「何度も言ったはずです。もう神にもアンナを任せたりしない。僕のものだ」
『代行者!!』
「もう決めたんです」
『貴様は神の代理人として果たすべき務めがあるだろう!!』
「僕がいないと何もできない鉄くずはお黙りください。……全く最高の目覚めが台無しです。アンナに癒してもらわないと……」
『なっ……!? おいやめろ! 何をする気だ! 昨夜の蛮行に神は、はわわわしていらしたのだぞ! やめろ!!』
「勝手にはわわわさせておけばいいのです!」
『おい! まだ朝だぞ! 代行者!!』

 ビンビンギンギンうるさいアイギスを無視して、リュカエルはさっさと部屋を後にした。ささくれだった心は、アンナでなければ癒せない。
 昨夜確かに腕の中に閉じ込めたぬくもりを求めて、リュカエルは階下に足を早めた。

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