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危機感
しおりを挟むもう顔を見るのも煩わしい。
「理香子、今日はお前の好きな手羽の甘酢を用意しておくから、早めに帰ってきてくれないか? 亘の進路のことで話があるんだ」
「食べて帰ってくるからいらないわ! 貴方と違って私は忙しいの。重要な仕事をいくつも任されてるんだから。亘のことは貴方に任せるわ」
「亘より仕事が大事なのか?」
「……っ! 貴方がいるじゃない!」
隆史と言い合いになった日、割って入ってきた亘に思わず怒鳴り返してしまってから、ろくに顔を見てもくれなくなった。もうそれなりの年齢なのだ。自分が関わらなくても隆史もいる。自分で進路を決められばいい。
長身を猫背に丸めて、白髪の増えた隆史。傷ついたような目で縋るような視線に苛立ちが募った。私はもっと価値のある男に求められている。
辛気臭いその顔を見ながら用意された朝食を食べるより、理香子は早めの出勤を決断した。
カバンを引っ掴み玄関へと突進する理香子に、隆史が慌てて追い縋ってくる。
「理香子! 出るならこれを着ていけ。まだ朝晩は寒いだろ?」
歳なんだから。散々由衣に馬鹿にされたせいか、語尾に続く幻聴が聞こえた気がしてカッと怒りが込み上げた。
「いらないわよ!」
差し出された膝までのトレンチコートを叩きつけて、理香子は怒鳴り返すと踵を返した。せっかく膝上のスカートで足を見せているのに、膝丈のトレンチコートとかセンスを疑う。本当にイライラさせられる。
満員電車の一員になった理香子は、ささくれ立っていた気持ちが少しだけ和らぐのを感じた。普通はうんざりする満員電車も、理香子にとっては立ち並ぶオフィス街へ運ばれる一員だと、実感させてくれるものだった。うだつの上がらない夫と反抗的な息子がいる家庭から、自分の居場所に運んでくれる。離れるほどに心が軽くなる。
早めに出てきたおかげで、最大混雑ではない車内で、理香子はスマホの画面を見つめた。今日も来ていないメッセージ。旅行計画を当てている辺りは、それぞれうまくいっていたというのに。
(上原くん……)
既読スルーされているメッセージを遡り、理香子の胸が切なく震えた。
『俺が信用して頼れるのは須藤さんしかいないよ』
『N社の資料、ありがとう! すごい助かった』
『心配しないで。俺、すごい理想高いから、伊藤さんとか興味ないし』
急に態度が変わった原因はなんなのか。哲也は誰にでも基本的には愛想はいいが、理香子には子犬のように甘えていた。年上が好きだと言っていた。だから理香子を無視して留美と歩いて行っても、きっと何もなかったはずだ。
「早めに誤解を解かないと……」
でもこのままなら終わってしまうかもしれない。そもそも誤解なのか。そもそもそんなものがあるのか。それすらも考えることもなく理香子は焦燥を募らせていた。
早く出社しすぎた、理香子は共有フロアに向かった。オフィスの開閉権限は、正社員しか持っていない。この時間なら、清掃当番以外はまだ誰も来ていない。廊下を進む理香子は、聞こえてきた声に眉を顰めた。
「なんでそういう嘘つくの? ブスが相手にされるわけないでしょ!?」
「本人に確かめればわかりますよ? 嘘だと思っていようが、事実は変えられないんで」
よりによって今日の清掃当番は由衣と留美らしい。
「あんたみたいなブスに哲也さんが靡くはずないでしょ!?」
「だから本人に確かめてみればいいじゃないですか」
由衣の怒鳴り声と勝ち誇って嘲笑する留美の声に、
(靡く……?)
理香子は考える間もなく休憩室に飛び込んだ。
急に入ってきた理香子に、驚いたように振り返った由衣と留美。留美は理香子の怒りの形相に、ゆっくりと口角を釣り上げた。
「おはようございます。須藤さん。ちょうどよかった。私と上原さんがホテルに行くとこ、須藤さんは見てましたよね? 伊藤さんが信じたくないみたいで」
「だからそんな嘘……」
言いかけた由衣が真っ青になってぶるぶる震えながら、凄絶な目で留美を睨む理香子に顔を歪めた。
「……っ!! あんたまさか本当に……!!」
「だからそう言ってるじゃないですか」
「なんであんたなのよ!! ババアを捨てたんなら、あんたみたいなブスじゃなくて普通、私でしょ!!」
「知りませんよ。本人に聞いてください」
掴みかかってきた由衣にヘラヘラ返す留美。
「嘘……捨てた……? 上原くん、なんで……」
由衣に興味はないと言っていた。でも留美なら興味があったというのか。美人とは言えない容姿の留美を、哲也は愛想はいいが他の人と同様に気にも止めてなさそうだったのに。見つめる先の景色が暗くなるような絶望に浸りかけた時、
「ちょ、ちょっと! 何事ですか!?」
息を切らして大地と直樹が駆け込んできた。直樹がキョロキョロと背後を気にし、大地の焦りの滲む表情と強い口調にようやくまずいとその場の全員が気がついた。
「大丈夫ですかー? なんか揉めてるみたいでしたけど?」
「あ、お、小野田さん。大丈夫です。なんか掃除のことで揉めたらしくて……」
ヒョイっと入り口から顔を覗かせた小野田に、大地が部屋の中を隠すように取りなし始める。
「そうなんですか。もう大丈夫なんですよね? 何が原因か分かりませんけど、ほどほどにしてくださいね。ここ、会社なんで」
「あ、はは……そうですよね。ほんとすいません」
「なんで池澤さんが謝るんですか?」
「あ、いえ……うちの部署の人間なんで。お騒がせしてすんません」
「そうですか。じゃ、お任せしていいですかね? 私、当番あるんで」
「あ、はい。大丈夫っす」
小野田はそのまま休憩室を出て行き、シンと落ちた沈黙に大地が怒りの声を静かに上げた。
「あのさ、たまたま俺らが来なかったらどうなってたかとか考えないわけ?」
「おい、大地!」
それまで状況を見守るだけだった、役立たずの直樹を大地は一瞬睨みつけ、ため息を吐き出した。
「……とにかくここがどこかくらいはいい加減弁えてくださいよ」
吐き捨てるように呟くと、大地はそのまま休憩室を出ていった。
「大地の言う通りだ。バレて困るのはお互い様だろ。小さいことでいちいち騒ぐなよ」
その瞬間、鋭く留美が直樹を睨みつけ、無言のまま休憩室を出ていく。爪をガリガリ齧る由衣をチラリと見て、直樹は顔を顰めた。
「とにかく今後は注意して、言動は慎重に」
キリをつけて出て行こうとした直樹を、理香子が追いかけた。
「今井さん」
振り返った直樹を、理香子は挑むように見上げた。
「今夜七時に「いろは」で」
「えっ……あ、ああ。じゃあ、七時に……」
理香子はそのまま直樹の脇をすり抜ける。
(つけあがるのもここまでよ……!!)
留美も由衣も、そして哲也も。甘やかしすぎたのかもしれない。年上だからと大目に見すぎていたのかもしれない。ならば反省させなければならない。
現実を教えてやらなければ。煮えくり返る怒りを抱えながら、理香子は現実を見せつける決意をして、フロアを後にしていった。
(これ……大丈夫なのかな……?)
会議室の隙間から覗いていた小野田は、ため息をついてスマホを取り出した。
(仲良く旅行とか行く空気じゃないんですけど……)
とりあえず今見た出来事を絢子に報告しながら、小野田はため息をつく。今日の掃除当番の組み合わせに、何か起きるかもと軽い気持ちで野次馬にきたら、とんでもないことになっていた。
(不倫すると脳みそが溶けて無くなるのかもね)
もし大地と直樹がコーヒーを買いに来なければ、もし居合わせたのが他の誰かだったら。間違いなく会話の内容から社内で噂になっていた。それでなくてもあの三人は、よくない方に目立っている。あれで隠しているつもりなのかと、問い詰めたくなるようなお粗末さだ。
すでに怪しんでいる人がいてもおかしくない、徐々に激化する不倫女のバトル。
小野田は絢子に送信を終え、自分は脳みそが溶けて無くなるようなことは絶対にしないと誓った。だって相手の妻は絢子のような魔王かもしれないのだから。
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