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魔王の資格
しおりを挟むしんと沈黙が落ちたテーブルで、空気を読んだ健人が気まずそうにコーヒーを啜る音だけがする。
「絢子さんが小野田さんを通じて、森永って女を怒らせた。それだけで一個矢印が繋がった。こんなこと、できるんだ……」
信じられないように哲也と留美の証拠写真を、みのりは呆然と見つめた。
「ほんの少しの変化だけで簡単に揺らぐほど、あっちの関係性は緊迫していて不安定。不倫を始めたばかりの頃の刺激に飽きて、諍いを起こし始めたからできたことです」
「すごいです、絢子さん。本当に魔王みたいですね!」
尊敬の眼差しを向けてくる弥生に、絢子は苦笑を浮かべた。
「……今回は本当にタイミングが良かっただけです」
「でも、すごいです! だけど……一番難しい矢印が残っちゃってますよね……それにしてもうちのクズって目の前で森永さんと、絢子さんの旦那さんと消えても落とせなかったんです……ゴミすぎる……」
「弥生さん……でも確かにできることは多くはないので、Xデーまでに間に合えばいんですけど……」
理香子は男側の食指が全く動かせないらしい。今まで空気だった理香子と、由衣には簡単に靡く直樹と大地。おそらく由衣には生理的嫌悪を抱いてすらいそうな哲也と、言動が危うすぎる由衣。
難しい表情で顔を見合わせる絢子と弥生に、みのりが写真からゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫……」
「みのりさん?」
哲也と留美の写真を置いたみのりが、不敵な笑みを浮かべながらニヤリと笑う。
「家庭がうまくいってないストレス。それがババアの不倫にハマった理由なんだよね?」
「……多分、大きな理由の一つなのは間違いないと思います……」
「じゃあさ、そのストレスをもっと大きくしたらどう?」
「大きく、ですか?」
「目の前で絢子さんの旦那さんに他の女との仲を見せつけられた。その上で家庭でのストレスが激増したとしたら、自分から仕掛けていくようになるんじゃない? ウチのゴミ、押しに弱いし」
「家のクズも絢子さんの旦那さんに対抗して、なんとか落とそうとするとは思います。だから須藤さんを動かせれば、確かになんとかなりそうですけど、動かす方法が……」
「うふっ。このババア、既婚者じゃん?」
「「…………あっ!!」」
「ババアの旦那に知らせて、協力してもらうのどうよ?」
「でも、浮気を知って須藤さんの旦那さんがどう出るかは……」
「不貞の証拠を取引材料にするのはどうでしょう? あからさまに服装とか変わったらしいので、疑ってはいるはずです。その上で今、離婚していない……それなら協力してくれるかもしれませんよね!」
顔を見合わせてうんと頷き合ったチーム・サレ妻に、健人が伺うように片手を上げた。
「……あ、あの、じゃあ、俺らがその旦那を連れてきますか? みなさんは極力動かないほうがいいっすよね?」
「マジで!? やってくれんの?」
「龍なら言いくるめるの得意だし」
「龍か、いいね! 絢子さん、弥生さん、いい?」
「いいも何も、そうしてもらえたら助かる。でも相手の旦那さんを連れてくるなら……」
「事前開示情報は最小限で! ですよね! 協力が無理なら、予定外のことをされないように、ですよね! 心得てます」
ど金髪のチャラそうな健人が、おどけて敬礼のポーズをとる。肝心なポイントを口にする前に理解していることに、絢子はだいぶ失礼ながら驚いた。人は見た目ではない。度々みのりの友人に助けられて認識したつもりの事実を、絢子は改めて思い知らされた気持ちになった。
「健人さんって、一体何者……?」
「健人? フリーターだけど?」
みのりが首を傾げ、健人が照れたように頭を掻く。
「そう、なの……?」
とてもそうは思えないが、ともあれこれだけ頭の回転が早いなら安心して任せられそうだ。
「お願いばかりですいません。お任せしてもいいですか?」
「もちろんです! 俺、頑張りますよ! 弥生さんが早く離婚できるように!」
健人がキラキラの笑顔を弥生に向け、弥生はニコッと笑うと華麗に健人を無視した。肩を落とした健人をみのりもスルーして、絢子にニッと笑みを浮かべて振り返る。
「ウチも魔王見習いくらいは名乗れるかな?」
得意満面のみのりに絢子が苦笑しながら頷いてみせると、弥生は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「絢子さんと匹敵する魔王っぷりです。すごいです。私は……足を引っ張るばかりで、すみません。お二人のように魔王にもなれそうになくて……」
落ち込んだように悲しそうな笑みを浮かべた弥生に、絢子は首を振ってゆっくりカップをおいた。
「各部署のプロジェクトや企画を把握する。この金額だったのは期待してるからか、はたまた逆なのか。そこまで分かるようになると、俄然仕事は面白くなってくる」
「え?」
「私に仕事の面白さを教えてくれた大魔王のお言葉です。魔王に賢さはいりません。重要なのは知識と経験なんです」
「知識と経験……?」
「趣味、嗜好、家族構成、性格、思考。何かが起きた時、どんな行動を選択する人なのか。それを正確に導き出すには知識と経験が必要です。そして今それを正確にできるのは誰なのか」
絢子は言葉を切って、カップを両手で包んで琥珀の波紋を見つめた。
「……それは、きっと私たち妻なんです。誰よりも近くにいて、気にかけて理解しようとしてきたから……愛していたから、正確にわかる……」
足りないところを補い合って、一緒に幸せになろうと努力していたから。相手を知ろうと気遣ってきた日々があったからこそ、わかるのだ。こんな時、どうする人なのかを。
プライドを投げ打って愛されようと、自分を押さえ込んでまで直樹に懸命に尽くしてきた弥生。初対面で絢子を怒鳴りつけるほど、理想の家族を一緒に作る人として絶対の信頼を寄せ、味方であろうとしてきたみのり。
絢子は哲也にとってどんな妻だっただろうか。どんなふうに見えていたとしても、絢子も絢子なりに精一杯努力してきた。その事実だけは変わらない。私たちは夫に対して、誠実に妻であろうと向き合い努力してきた。
「愛して、努力して、大切にしてきた。夫婦としての知識と経験が分だけ、私たちはより強い魔王になれる。愛していた分、より的確に。信頼されている分、より深く。地獄に、落とせる」
味方であれば何よりも心強い。でも反転させれば何よりも恐ろしい。反転させないための唯一の方法は、たった一つだけだった。
「あの人たちが心地よく快適に過ごせる方法や気遣い方を知っている。だから恐ろしく不快で辛いものにする方法も、私たちは知っているんです」
絢子はゆっくりと顔を上げた。自分を見つめる弥生とみのりをしっかりと見つめ返す。
「最高の舞台のために、私たちは全員で魔王になるんです」
こくりと頷き返してくれたみのりと弥生に、絢子は笑みを返した。今この瞬間、心の底から思った。味方が、チーム・サレ妻がいてくれて良かったと。
裏切られた悲しみと怒りが、絢子を陰湿で陰険な手口で相手を貶めることに駆り立てた。絢子だってそうしたかったわけではない。できることならしたくはなかった。善良でありたかった。
きっと誰かは言うだろう。そこまですることはないんじゃないかって。辛かったにしてもやりすぎだって。
でもこの二人だけは絢子を完全に徹底的に肯定してくれる。同じ苦しみと辛さを分かち合い、支え合って共に戦うこの二人だけは。だから絢子も味方でいる。何があってもこの二人のために全力を尽くす。誰一人置いていかない。
もっとも信頼する人からの裏切りは、まるで世界からに捨てられたような絶望だった。そんな時にこの二人だけが、絢子のそばにいてくれた。一人じゃない。チーム・サレ妻の存在が、絢子に戦い抜く力を与えてくれる。
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