チーム・サレ妻

宵の月

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最後の涙

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 一人の部屋でみのりはじっとスマホの画面を見つめた。届けられたのは、張り込みしてくれている友人からの久しぶりの「残業」報告。でも残業相手はいつもとは違っていた。

「わかってたし……」

 脱力するような虚しさはあっても、悲しくはなかった。だからみのりにもわからなかった。スマホの画面にポトリと落ちた自分の涙の理由が。

「ふっ……やだな……なんでだろ……悲しいわけじゃないのに……」

 言ううちにも涙は溢れてきて、喉の奥を涙に塞がれ嗚咽が漏れた。止まらない涙にみのりは諦めて、もう好きなだけ泣いてしまおうと考えた。どうせ大地は帰ってこないから。

「ふぇ……ううっ……」

 でも大人になって泣くのが下手になった自分は、嗚咽を無意識で噛み殺そうとしてうまく泣けない。堪えようとする苦しさに息を詰めると、膨れたお腹をぽこんと遠慮がちに叩かれた。その瞬間に、凝っていた嗚咽が溢れ出た。
 まるで励ますようにぽこんぽこんと胎動するお腹を抱きしめて、みのりはようやく自分の涙の理由がわかった気がした。

「ごめんね……ママしかいなくなっちゃって……でも大丈夫だからね。ママが、ずっとずっと大好きでいるから……」

 思い浮かべると思わず急足になるような、ほかほかの手料理が用意されている我が家。ただいまと声をかけたら、おかえりと笑顔が返ってくる。罵り合うのではなく、笑顔を向け合う家族。そういうものを築きたかった。
 愛されて育った証のような大地の明るく笑う笑顔が好きだった。こんなふうに笑う人となら、そんな家庭を築けると信じていた。

「ママがバカだったから……ごめんね……ごめん……」

 でもみのりと大地とは求めていた「楽しさ」は同じではなかった。それを今もう一度踏み躙られた。
 大地は一緒に過ごす「楽しさ」を、別の誰かに求めた。みのりが切実に欲しかったものは、大地にとっては無価値だったのかもしれない。こうして躊躇なく裏切りを重ねられるのは、そういうことなのだから。みのりも子供の存在も、大地を引き止めることはできなかった。みのりの憧れたものは、たった一度の裏切りも許されないものだと、大地は気づきもしていない。

「死んじゃったんだ……」

 ポツリと呟くと溢れていた涙がスッと止まった。顔を覆っていた手のひらを見つめながら、不意に溢れた呟きは奇妙なほどしっくりと、みのりの胸に収まった。
 そうだ。大地は死んだのだ。みのりといることが何より楽しいと、笑っていてくれていた大地は、今のゴミカス野郎に成り代わられて死んだのだ。

「……そんなら、手加減なんていらないじゃん……!!」

 この子とみのりから一緒に幸せになろうと約束した大切な人を、消し去って残っているのが今のゴミだ。そんなものに流してやる涙もかける慈悲もない。沸々と湧き上がってきた静かな怒りと決意に、みのりはグッと拳を握りしめた。

※※※※※

 玄関口で靴を履き、大地は振り返ってみのりを見つめた。

「あのさ、みのり……本当になんでもないのか……?」

 どう見ても泣き腫らしただろう瞼に、後ろめたいからこそ大地は何度も確かめずにいられなかった。
 
「もう、何回も説明したじゃん。妊婦ってさー、情緒が不安定になるんだよねー。別に悲しくもないのに、急に泣けてきたりさー。昨日ドラマ見てたらスイッチ入っちゃって。いやー泣けたわ」
「うん……」

 能天気に笑って見せる、いつものみのり。微塵も浮気に気づいているようには思えなかった。もし気づかれたら、きっとこんな顔になるほど泣かせることになると思うと、罪悪感が胸をよぎった。

「あのさ……今日、やっぱり早く帰るからご飯でも食べに行く?」
「なんで? なんでしょ?」
「あ、うん……でも早く帰ろうと思えばなんとかできるし……」
「えー、いいよー。毎日仕事に残業にで大変でしょ? ぶっちゃけお腹重くて外出るのしんどいし。大丈夫だからちゃんと仕事して、にしっかり稼いでくれた方が助かるよ?」

 ニコニコ笑うみのりを見つめ、大地はキリをつけるように頷いた。
 
「そっか……それなら……」
「……そんなにひどい? ウチ、今日買い物行こうと思ってたんだけど……」

 眉を顰めそんな心配をするみのりに、大地の口元が思わず緩んだ。無意識に身体が動いて、前髪で瞼を隠そうとしている、みのりの頬にキスをする。
 
「大丈夫、みのりはいつも可愛いって」
「……ありがと」

 驚いたように固まったみのりに、大地はそんなことをするのも久しぶりだったことに気がついた。急に離れ難い気持ちが湧いた瞬間、みのりが笑みを浮かべて手を振った。

「……じゃあ、気をつけて行ってきてね」
「あ、うん。行ってくる」

 自然とみのりに伸びていた腕を引っ込めて、大地も笑みを浮かべて玄関を出る。足取りも軽く駅に歩き出した大地は、ドアが閉まった瞬間、みのりが能面のように表情を消して、キスされた頬を拭いているなど思いもしなかった。
 駅に向かって歩き自宅が遠ざかるごとに、みのりの泣き腫らした顔を見て、浮気がバレたかもしれない不安も薄れていく。むしろ久しぶりのキスのおかげか、新婚の頃のように妙に気分が浮ついて足取りも軽く会社前まで辿り着いた。

(……やっぱ、女って性格も大事だわ)

 ちょうど会社前で由衣の姿を見つけてしまい、思わず足をとめた大地は眉根を寄せた。直樹と寄り添ってホテルに入っていった、昨夜の記憶が甦り足取りが重くなる。浮かれていた気分が台無しだ。

(離婚とか言い出す前にわかって、ラッキーではあるな)
 
 ちょうどみのりの妊娠がわかって、すぐに入社してきた由衣。見た目が好みだったせいで、一時は離婚まで真剣に考えたほどのめり込んだ。でも今はうっかり離婚を言い出す前に、頭が冷えたことに感謝しかない。
 視線を感じたのか、ふと由衣が振り返り目があった。大地を見つけ由衣が笑みを浮かべる。

(冷静になって見ると別にそこまででもないな……)

 なんで天使に見えていたのか。昔からお前は惚れっぽいと揶揄われていたが、久しぶりの火遊びにうっかりネジが飛んでいたらしい。笑みを返さない大地に、由衣が唇に指を当て小首を傾げて見せる。前は可愛く見ていたその仕草も、今は頭が悪そうに見えた。

「……おはようございます」
「うわっ!!」

 唐突に横から声をかけられ、大地は肩を揺らして慌てて振り返る。

「びっくりしたぁ……」

 じっと自分を見上げている留美に、大地は動揺してうるさくなった胸を押さえながら挨拶を返した。

「驚かせましたか?」
「あ、ちょっとぼうっとしてて……」
「そうですか」

 大地を見上げてくる留美を、大地は見下ろす。やぼったい服装に、どんよりと暗い表情。昨夜裏切りを目の当たりにして、傷ついた勢いのまま一晩を過ごしても全く情は湧いていない。朝日の下で見てもブスはブスだ。でも。

「今日は「定時」上がりですか?」

 表情も変えずに聞いてくる留美に、大地はゴクリと唾を飲み込み反射的に答えていた。

「……あ、いや、ちょっと残ろっかな。あー、手伝ってもらってい?」
「いいですよ」

 ずっと無表情だった留美が、ニッと笑みを浮かべた。その表情に思わず顔を顰めたが、大地は無言で頷いた。
 直樹がなんで留美と付き合っているか。特に期待もしていなかった自己申告だったが、本当に。顔は見ない努力をする程度、なんでもないと思えるくらいには。でもそれだけだ。

「私、一時間くらい残らないとダメなんですけど……」

 話をしながらなんとなく、留美と連れ立って会社へと歩き出す。
 
「ああ、それくらいなら待つよ。、おはよー」

 由衣とすれ違いざま、軽く挨拶の声をかけそのまま通り過ぎる。

(不倫旅行までは、まぁ適当にスッキリさせてもらって……)

 みのりが出産を終えたら家庭に戻る。所詮は不倫女どもだ。火遊びは火遊びでしかない。自分を裏切らず信頼を寄せてくれるみのりと、幸せな家庭に戻るのだ。
 うっかりやらかす前に気づけた自分の賢さに、内心満足していた大地はすれ違いざま留美が由衣に勝ち誇った笑みを浮かべ、それを鋭く睨む由衣には気づかなかった。

(……哲也さんはどうするんだろ?)

 能天気に今後の身の振り方を考えていた大地は、すっかり残業をしなくなった先輩を思い浮かべた。


 
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