クズ男と逃げた魚

宵の月

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クズ男と逃げた魚 前編

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 荒れ狂う感情のまま、薙ぎ払った花瓶が音を立てて床に落ちて破片になる。手当たり次第破壊する騒音にも、主人に言い含められた使用人は部屋を覗くことはしなかった。

 (アスティ!アスティ!アスティ!)

 初めて感じる制御のきかない感情に、強い酒を何度となく煽る。脳裏に穏やかな表情で微笑み合うアスティの姿が蘇る度に視界が滲んだ。

 (消えろ!消えろ!消えろ!)

 嫉妬。そんなもんじゃない。怒りではなく憤怒。憎しみではなく憎悪。これはもう殺意だ。身のうちを焼き焦がすような激情に、手当たり次第破壊する。
 無事な物のほうが少なくなった私室。百合のガラス細工を掴み振り上げ、叩きつけようとしたシスルの手が止まった。パタパタと涙が床に落ちる。 

 「嫌だ……嫌だよ……アスティ……」

 荒れ狂う激情は嘘のように消え去り、身が震えるほどの痛みと哀しみに、シスルはその場に崩れ落ちた。
 遠目に見詰めたアスティの結婚式。今夜アスティは侯爵が選んだあの男と初夜を迎える。

 「アスティ……嫌だ……」

 あの日から半年。頭を下げに通った侯爵と話せたのは、アスティの婚姻が決まってからだった。アスティに会えたのは3回だけ。その度に焦燥を募らせても、心を変えられなかった。

 「アスティ……」

 穏やかに微笑むアスティが蘇る。困ったように哀しそうに笑うアスティしか知らなかった。薔薇よりも百合が好きだと知らなかった。望みは薄く、手遅れだと分かってた。それでも。
 手当たり次第暴れまわる騒音が途絶えた室内に、惨めな嗚咽が悲しげに響く。
 アスティもこんな気持ちだったのだろうか。これがアスティにシスルが与えていた苦しみだというなら、許されないのも当然だった。
 啜り泣くシスルの姿を、壊されなかった百合のガラス細工が静かに見守っていた。


※※※※※


 「結婚?無理ですね。それが条件だと言うならフィオルに継がせて下さい。」
 「シスル!!」
 
 話は終わったとばかりに部屋を出ていくシスルに、伯爵は声を荒げたが振り返りもしない。我を押し通す長男に頭痛が止まない。

 「もう3年だぞ……」

 シスルは河川事業で協力関係のあった、フラメル侯爵令嬢との婚約を白紙にした。だがどういうわけか白紙にしてすぐ、再度婚約を結び直したいと大騒ぎした。
 本気を見せるように、侯爵家に日参したが当然許されるわけもなく、相手方の令嬢は3年前に結婚し娘まで産まれた。
 
 「極端すぎる……」

 婚約してた時はあれほど放蕩に耽っていたが、今はその影もない。それどころか真面目に仕事をし始めた。フラメル侯爵家との河川事業に関わり、今ではシスルに一任している。
 真面目に働き、女遊びも辞めた。ぜひとも結婚させたいが、シスルは頑なに受け入れないのだ。結婚するくらいなら家は弟に継がせろとまで拒否をする。

 「一体何なんだ……」

 息子の扱い難さにため息が止まらない。釣書の山をガサガサと片付けながら、伯爵は封書に手を止めた。

 (夜会に行かせるか……)

 幸いシスルは顔がいい。悪評を轟かせるほど遊び歩いていたが、それも一切なくなった。見合いが嫌なら夜会に行かせれば相手を見つけるだろう。今の様子なら身を持ち崩すこともなさそうだ。
 伯爵は執事を呼びシスルに招待状を渡しておくように命じた。

 「……こう来たか……」

 うんざりしたようにシスルは眉根を寄せた。見合いがだめなら夜会。意図が丸わかりだった。シスルは身を起こすと放り投げた招待状を引き寄せた。主催者の名前を眺める。

 (マリオル公爵か……)

 多分アスティも夫婦で参加するだろう夜会。フラメル侯爵家とは河川事業で関わりを続けているが、結婚したアスティは家を出ている。ずっとその姿を目にしていない。

 (アスティ……)

 会いたいのか会いたくないのか。シスルは自分でもよく分からなかった。ただその名を心に浮かべると、どんな感情か未だに小さくさざなみが立つ。3年の月日は荒れ狂う激情を、少しずつ凪へと鎮めていった。逆を言えば、3年かかった。
 シスルは少しだけ考え込んだ後起き上がり、服を新調するため執事を呼んだ。


※※※※※

 
 3年ぶりの夜会の場に足を踏み入れたシスルは、きらびやかな会場と着飾った人々の前で愛想笑いを貼り付けていた。

 (………うるせえな)

 意気揚々と参加していたはずの夜会。馬鹿騒ぎしていた感覚は思い出せなくなっていた。取り囲まれるのもこの空気も、馴染んだもののはずだった。
 
 「シスル!うふふ。久しぶり~。随分落ち着いたのね。ねぇ、まだ結婚しないの?私とかどう?」

 ねっとりと絡みつくような視線と、媚びるような声。これが日常で気分を高揚させるものだったはず。

 (香水くせぇ。………触んなよ)
 
 それが今は不快で苛立つものになっていた。3年引きこもると、趣味趣向は変わるらしい。

 (本当、何が楽しかったんだろうな……)

 もう返事することすら放棄しながら、シスルはぼんやりと会場を見回した。

 「…………っ!?」

 飛び込むようにその姿を捉え、シスルは息を呑んだ。夫と連れ立って歩くアスティに、視線が縫い止められる。
 にこやかに挨拶を交わしながら、夫のエスコートに身を任せるアスティと彼女を見下ろす男。婚姻式のあの時より、ずっと熱を帯びたその表情。

 「ねぇ?シスル?聞いてる?」

 ぐっと喉を詰まらせ、歯を食いしばるシスルに囲んでいた女が首を傾げる。
 アスティを誇らしげに連れ歩く男。控えめな笑みで寄り添うアスティ。
 伸ばされた手を振り払い、シスルは無言でその場を足早に離れた。

 「………くそっ!!」

 人目を避けて辿り着いた中庭の木立が、シスルの八つ当たりにガサリと枝を揺らす。
 アスティが結婚した日、荒れ狂う激情が涙にかわった。あれからシスルの心は動かなくなり、日々をただ淡々と過ごしていた。

 「アスティ……!!」

 なくなったように感じていた感情は健在で、一目見ただけで荒れ狂う想いはあっさりと呼び覚まされた。
 誇らしげだった男に殺意が込み上げる。あの日の激情が蘇り、シスルは抱えた頭を掻きむしる。せり上がってくる凶暴な怒りと、痛烈な嫉妬に内臓が食い破られるかのようだった。

 (殺してやりたい!!)

 男の誇らしさに共感できる自分にもひどく苛立つ。アスティを手にしたものにしか分からない、その価値を知る顔をしていた。
 もう一度殴りつけた木が、音を立て葉をハラハラと落とした。

 どれくらいそうしていたのか、すっかり冷えた身体と共に頭も幾分か冷え、激情は敗北感にも似た虚無にすり替わっていた。

 (帰ろう……)

 もう一度アスティを見る勇気はなかった。あの男を目にしたら何をするか自分でも分からない。シスルはフラフラと歩き出した。

 「………ふざけんなっ!」

 悪態を吐き出す声と共に、ガンッ!と響いた音にシスルは顔を上げた。捉えた姿に眉根を寄せる。

 「……ランコム?」

 シスルの声に振り返ったランコムは、あからさまに嫌そうに顔をしかめた。シスルも同じだけ顔を顰める。

 「………何してんだよ」
 「は?それ聞く?お前がここにいる理由と同じだよ、誇らしげに連れ回しやがって!!あてつけかよ!!」

 吐き捨てるように怒鳴るランコムに、シスルは呆れた。ちょっと前の自分の姿のみっともなさを自覚して、急速に頭が冷えていく。妬む姿はこれほど見苦しいのか。

 「俺の女になるはずだったのに!なんで俺を選ばなかった!!あんなイモ臭い男と結婚するなんて!」

 苛立ちのまま臆面もなく言ってのけるランコムに、軽蔑の眼差しを向けた。シスルにも似たような気持ちがないわけではない。だが考えなくても分かる。

 (アスティはお前なんか気にも止めてねーよ)

 幸せそうだった。死にたくなるくらいに。愛を乞う側に選択権はない。自分を選ばないのは悪かのような言い様。思いは止められないにしても、アスティに転嫁するのは違うだろう。そんなんだから振られるんだ。

 「付き合ってたわけでもなく、親切面で介抱する振りで連れ込んでやりまくった男と、父親が娘のために吟味した男。俺でも後者を選ぶ。」
 「……ハッ!黙れよ!振られて不能のくせに!」
 「お前も似たようなもんだろ。」

 アスティの結婚からランコムは、あてつけのように手当たり次第に戻ったと聞いた。苦い顔をして奥歯を食いしばるランコムを横目で見ながら内心嘲笑する。

 (そうなるくらい分かるだろうが)

 ここで悪態ついてるのは忘れられないから。アスティにこだわってるから。そんな状態なら誰をどんなに抱いても満足するわけがない。シスルだって女を抱けないわけじゃない。やろうと思えばやれる。
 皮膚感覚なんて半月もすれば忘れたくなくても消えるから。時間が経つほど跡形もなくなり、3年も経った今は記憶だけ。鮮烈な快楽の記憶が上書きを許さない。
 
 「あの身体のせいだ。アスティ以上がいない。あの男に俺が負ける要素なんか一つもないのに!」

 (すげーな、こいつ。見向きもされてないのに)

 そして徹頭徹尾、身体目当て。それは非常に人を不快にさせるらしい。シスルは立ち上がった。話すほどに嫌悪感は募る。我慢してやる義理もない。

 「……お前、真面目に働いたほうがいいぞ。」

 真面目に働くと分かる。香水臭くもなく、礼儀正しく、そっと寄り添う、控えめな女の価値。アスティとのベッドは確かに強烈だ。でもそれ以外の付加価値は重要だ。バカは人前に出せないから。

 「黙れよ!振られて惨めに引きこもってた奴が随分偉そうだな?」

 ランコムの嘲笑に、シスルは肩を竦めた。こいつとは二度と顔を合わせたくない。下半身で思考する奴は頭がおかしい。まるで自分を見せつけられているようで吐き気がする。
 地味なだけ。アスティの価値を見過ごした自分の下半身思考が、ランコムといると余計に身につまされた。不愉快な上に恥ずかしくなる。シスルは立ち上がった。

 「クズが不能になって、ちょっと働いた。元々がクズだからまともに見えてるってだけのくせに。」
 「……まあ、その通りだな。じゃあな。」

 それは間違いない。ふふっと笑ってシスルは後ろ手に、手をヒラヒラと振って振り返らずに立ち去った。
 自分より底辺にいる男を見て、ちょっとだけシスルは安心した。自分のほうがまだマシだ。
 人の本質はそう変わらない。自分より下を見て安心する。その程度にはクズのままだ。

 (ああはなりたくねーな。………なぁ、アスティ。そんなクズのどこが好きだったんだ?)

 ずっと考えていても出ない答え。もう一回話せるなら知りたい答え。シスルもランコムも大して変わらなかったはずだ。
 自分でも分からない。身体になのか心になのかその両方か。それとも手に入らないから固執しているのか。
 ただ刻まれて消えない執着だけが確かだった。愛というには薄汚くて、荒れ狂うほど凶暴な妄執。
 褪せてくれないその執着が、今もシスルを捉えて離さない。一人なのはそのせいで、操を立てているわけでもない。身体がとか心がではなく、アスティが欲しい。ただそれが消えずにある。

 (アスティ、俺のどこが好きだった?)

 自他とも認めるクズ。嫉妬を知ってからはなおさら思う。10年もどうして好きでいられたのか。その答えを知れたなら、この執着から解放される気がした。

 
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