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ゲロ王子

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 サリースがシャワーから上がり、服を着替えるタイミングで遠慮がちなノックの後に、アーシェがそっと顔を覗かせる。

「……ごめんね、サリー。手伝うわ」
「……うん、ありがとう」

 アーシェはサリースの背後に周り、ゆったりとしたラインのドレスのリボンを縛った。
 体格が違うサリースが借りれるのは、このタイプのドレスしかなかった。胸元がキツく後ろで縛ったリボンは余ることに、アーシェはちょっと悲しそうな顔をしている。

「サリーは本当にスタイルがいいわ……」

 声を落ち込ませたアーシェに、サリースが眉尻を下げた。

「……ありがと。でもそんなの意味ないわ」

 不快な視線は集めても、欲しい人からの視線は注がれない。自分が持っていないものこそが、いつだって選ばれるのだから。
 
「……うん」

 ポツンと落ちたアーシェの返事に、サリースは少しだけ驚いた。

『サリーがなんで兄さんがいいのか、さっぱり分からないわ。サリーは綺麗よ。他にいい人絶対いるはずなのに』

 以前のアーシェならそう言って、きっと首を傾げていた。繊細そうな見た目に反して、実は割と大雑把なアーシェ。恋の機微を理解していなかったはずの親友は、ただ静かに頷いてくれた。
 見た目でも性格でも思想でもない。人格も善悪さえも歯止めにならない。勝算度外視の負け戦でも、理性的な理屈の外から突き動かす感情を、今は理解してくれるのだと分かった。
 包み込むような大らかさはそのままに、三人での婚姻はアーシェもそういう想いを、学ばせるような日々なのかもしれない。幸せなのだ。その事実が嬉しかった。慮って返された静かで短い肯定が、そっと沁みてサリースの心を慰めてくれた。
 
「……ねぇ、サリー」
「なに?」
「今日聞こうと思ってたんだけどね」
「うん」
「……殿下にお会いしてみてどうだった?」
「殿下? どうって……そうね……」

 窺うようなアーシェに、サリースが首を傾げた。
 赤金の瞳と髪の精悍な美丈夫。強国デルバイスの王太子は、国外でも噂をよく耳にした。情の深い好青年だとか、辣腕の切れ者だとか。一律の印象を抱かせていない時点で、他国の様々な情勢を目の当たりにしたサリースは、相当優秀なのだろうと思っていた。でも今は。

「ゲロ、かしら」

 対面するとすら思ってなかった王太子。まともな挨拶も交わせなかった初対面からの、出会い頭の吐瀉物噴射。もう強烈すぎて、それ以外が跡形もなく消え去っている。

「…………そう、よね、ゲロ王子よね……」

 アーシェは完全に、タイミングを間違えたことに俯いた。サリースは落ち込んだ様子のアーシェに小首を傾げる。どんな返事を期待していたのか。ほぼ初対面で突然嘔吐噴射されたら、「ゲロ王子」それ以外のことは消え去る。ゲロ以外、頭に残るわけがない。

「殿下は今年中に結婚するのは、無理かもしれないわね……」

 アーシェは早々に無理っぽいなと、小さく結論をつぶやいた。

「アーシェ、どうかしたの?」
「ううん。なんでもないの。あ、あの、サリー。もし大丈夫なら今から殿下に、会ってもらってもいいかしら? 大丈夫、兄さんはもう寝たから」
「そう……別に構わないけど、随分飲んでいらしたしもうおやすみになってるんじゃない?」
 
 とめどなくぶちまけていたカイザーを思い出し、眉根を寄せるサリースにアーシェは眉尻を下げた。

「エイデンが酔い覚ましの魔法薬を持って行ったの。殿下もこのままだと気まずいと思うし、早く謝りたいはずだから……」
「そう? もう休まれた方がいいと思うけど……」
「うん……でも……寝る前に、ね?」
「う、うん……」

 なんとか挽回の機会を作ろうとアーシェは、サリースを半ば強引に廊下へと連れ出した。
 戸惑いながらついてくるサーリスに、アーシェは祈るような視線を向けた。大切な親友のサリース。婚約した兄の顔をみて分かった。サリースの気持ちを受け入れることはきっとない。帰国したサリースに会って分かった。まだ兄を切ないほどに想っている。兄も親友もどちらも大切で、どちらも幸せでいてほしい。
 正直カイザーとうまくいかなくても別に構わない。でも新たな出会いは他に目を向ける気持ちを、芽生えさせてくれるかもしれない。そのためにはゲロ王子のままでは困るのだ。ゲロと兄なら、どうしても兄が勝つ。
 今日という日がせめて「ゲロ」で終わらないよう、アーシェはカイザーの泊まる客間へと急いだ。

※※※※※ 
 
「死にたい……」

 両手で顔を覆い呟いたカイザーに、ロイドは遠慮なく吹き出した。

「ぶふっ!! で、でしょうね! あはははは! よりによって……サリーに……ゲロって……あはははは!」
「アセトアルデヒドが許容量を超えたんだろう。玉ねぎが腐ったような、あるいは生ゴミの匂いに近いと言われている」
「…………」
「エ、エイデン! 追い打ちかけるの、やめ、やめなよ……あはははは! 好きな女に、生ゴミ……!! 求愛方法が……特殊……!!」
「別に追い打ちをかけてなどいないが?」
「…………」

 絶望するカイザーを前に、エイデンは首を傾げ、ロイドは笑いすぎて呼吸困難を起こしている。言い返す気力もなかった。
 直前までの脳内ポエムではなく、垂れ流したのはゲロ。エイデンの酔い覚ましの魔法薬の効果が憎かった。ポエムならワンチャンあったかもしれない。だがゲロではノーチャンだ。立ち返った現実には絶望しかない。
 笑いすぎてロイドが瀕死なことだけが救いだった。もうそのまま口を閉じていて欲しい。

「カイザー、なぜゲロをかけた。求愛方法として吐瀉物を噴射する事例は聞いたことがない」
「……お前は俺がかけたくて、かけたと思うのか?」
「違うのか?」
「…………」

 不思議そうなエイデンに、カイザーはやるせなく口を閉じた。なぜ求愛行動ということになっているのか。そんな斬新な告白をするわけない。告白だという意図が伝わるかも疑問だ。

「吐瀉物を吐きかけるのが目的ではなかったのか?」
「不慮の事故に決まってるだろ? 俺をなんだと思ってるの?」

 いつからゲロをかけたがる人だと思ってたの? 他人に吐瀉物を吐きかける目的ってなんなの? エイデンがカイザーの言葉に驚いたような顔をした。驚くことに驚くんだけど。エイデンの中のカイザーはどうなっているのか。

「では何が目的だったんだ?」
「……俺は……俺はただ、笑って欲しかったんだ……」
「わら……笑って……」
「ロイドにか?」

 ピクピク痙攣しながら声を絞り出したロイドを、エイデンが振り返り怪訝な顔をする。
 ロイドを瀕死にするまで、笑わせたかったなら大成功だ。だがそんなわけない。もうブチ切れる気力もないカイザーは、ボソボソとヤケクソな気分で語り出した。

「……サリース嬢に笑って欲しかったんだ。あんなに美しいのに、とても寂しそうだった。ロイドにあれだけ堂々と、言い返せるほど気丈な女性なのに、ランドルフには声さえかけられず物陰から見守るだけ。そんなのおかしいだろ? サリース嬢は女神だ。想うより想われる方が似合う人なのに。憂い顔より笑顔がきっと似合う……だから俺は……」
「まあ、サリーは俯いていじけてるより、ピンヒールで下僕を踏んでる方が似合ってはいるかな?」

 笑い涙を拭きながら、ロイドがむくりと起き上がった。
 
「ああ、確かにすごく似合うな……」

 容易に浮かべられる光景に、カイザーは深く頷いた。気が強そうな華やかな美人。でもその中身は、とても繊細で臆病で。声もかけられずに見守るだけ。かわいい。

「つまり殿下はサリーにはその容姿に相応しく、下僕にした豚を踏んでて欲しいってことですね?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないぞ? 確かに似合う。ものすごく似合うけどそうじゃない。全然違う」
「じゃあ、自分を踏んで欲しいってことですか?」
「え……いや……そうじゃ、ない……」
「間がありましたね。気持ち悪いです」
 
 虫を見る目のロイドに、カイザーは慌てて首を振った。そうじゃない。全然違う。ちょっとしか興味ない。

「……ただ俺はサリース嬢に笑って欲しくて……俺が……笑わせられたらって、そう思っただけで……」
「カイザーで笑えるか?」
「俺で笑うってなんだよ……」
「さぁ? 殿下はあんまり面白くないよ? まあ、つまり殿下は酔った勢いでそういうことを伝えようとして、代わりに盛大にゲロをぶちまけた、と」

 こくりと力なくカイザーが頷き、エイデンは小首を傾げた。

「カイザー、それでサリース嬢は笑ったか?」
「エイデン……ゲロなんだよ? エイデンが殿下にかけられたらどう思うのさ」
「殴る」
「…………」
 
 ロイドとエイデンからの追い打ちに、カイザーはしょんぼりと項垂れた。

「ただサリース嬢が辛そうで……」

 サリース嬢を悲しくさせるランドルフから、自分に視線を振り向かせたかった。それだけだった。本当に。不幸な事故だった。特殊な性癖では断じてない。
 蘇ってきた絶望感にカイザーが俯いていると、ロイドがスッと立ち上がり扉に向かった。

「……ロイド?」

 ロイドはそのまま扉を開ける。ヒョイと向こう側を覗き込むようにして、その場に立っていた人物に声をかけた。
 
「……だってさ、サリー」
「……ふぇっ!?」
 
 扉の先に立っていたサリースに、カイザーは飛び上がった。気まずそうなアーシェと、顔を真っ赤にして俯いているサリース。

「サ、サリース嬢!!」

 アワアワと意味もなく立ち上がったカイザーに、ロイドが振り返る。その瞳からストーカー特化型ギフトの《影糸》を発動を示す銀色の輝きが収束しようとしていた。自分の魔力を相手の影に忍ばすことで、色々できちゃうギフト。サリースの位置を把握していたようだ。
 
「まぁ、そういうわけだから。エイデン、もう酔い覚ましは飲ませただろう?」
「ああ。今日は三人の日だ。もう休むとしよう」

 え、行っちゃうの? 立ち上がったエイデンに、カイザーは思わず視線を縋らせた。全く役に立たないエイデンでも、今はこの場にいて欲しかった。

「……サリー、客間を用意してあるわ。お話しが終わったらゆっくり休んでね」

 俯いたままのサリースに、アーシェもそっと声をかけると廊下を歩き出した。
 王太子の恋より三人の日。ロイドとエイデンは、さっさっとアーシェを連れて出ていってしまった。その場にはゲロをかけた王太子と、ゲロを吐きかけられたサリースだけが取り残された。

 
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