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1巻

1-2

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 議論が大分長くなってしまったことに気づいた王太子が、とにかく会議をまとめようと口を開く。

「ともあれ、神殿の巫女みこがそう言っているのなら、女神の生まれ変わりは確かにいると考えるほうが妥当だ。引き続き、騎士団は聖剣の探索を。神官は、できるだけ神託の精度を上げる努力をするよう巫女みこに伝えること。以上」

 やっと長く退屈な会議が終わった。
 みんなが席を立ち、解散しようとする。そんな中、ほっと安堵あんどの溜め息をついたライルに、王太子が思い出したように言う。

「ああ……そうだ。ライル、君は少し残ってくれ」
「……どのようなご用件でしょうか、殿下?」

 王太子はライルが不機嫌になったのがわかったが、大して気にとめなかった。それより、もっと大切なことがあるのだ。

「新しい魔獣が手に入ったんだ。君の意見を聞きたくてね」

 ミリアム王太子の顔が楽しそうにキラキラと輝く。

「……仕方がないですね」

 魔獣とは、この国に生息する獣の種の一つである。その中には、魔力があるものもいる。人に危害を加えないように予防措置そちほどこすのも、魔道師長のライルの仕事だ。
 今日は早く帰宅するのは難しそうだと、ライルは心の片隅でちらと考えていた。


   ◇


 ダーマ亭のまかないの時間が来た。
 フロルの家では、宿泊客の夕食の前に、家族全員で簡単な夕食をとることが日課となっている。

「いただきます」

 きちんと手を合わせてナイフとフォークを手に取ったが、フロルの食欲はいつもと違って全くいてこない。

(あの竜、とりあえず馬屋に入れてきちゃったけど、大丈夫かな?)

 森から連れ帰った子竜のことが、どうしても気になって仕方がないからだ。

(どうしよう……父さんや母さんに言うべきかな?)

 サラダをもそもそと口に運びながら、フロルは両親の様子をさりげなく観察する。ふたりは馬屋の異変には全く気がついていないようだ。
 両親が竜なんか見たら、きっと大騒ぎになるだろう。
 そういえば、とフロルは思い出した。今日のダーマ亭は、城の騎士たちの貸し切りになっている。このあたりで任務があるらしく、しばらくの間滞在すると聞いた。
 両親が騒いで、万が一宿に泊まっている騎士たちに子竜の存在がバレたら、ややこしい事態になるのは間違いない。

さわらぬ神にたたりなしって言うし……)

 やっぱりこのまま黙っておいて、明日の朝一番に森に帰そうと、決心する。

「どうしたフロル。食事が進んでないが、腹でも痛いのか?」

 ちょっと太めの父がおおらかに言う。平静を装うものの、フロルの胸はドキドキと落ち着かない。

「う、ううん。べ、別にいつもと変わらないよ?」
「そうか。じゃあ、早く食べてしまいなさい。父さんは、これからお客さんの夕食の支度したくがあるからな」
「そうだね。父さん……」

 フロルはぎこちない笑みを顔に貼りつけながら、一生懸命いっしょうけんめい夕食を食べきったのだった。


 そして夕食後、すぐにフロルは馬屋へ戻った。馬の世話も兼ねて、子竜の様子を見に来たのだ。

(そういえば、竜って何を食べるんだろう?)

 竜のえさがなんだか全くわからないけれども、水くらいは飲むだろう。
 馬に飲ませる水を準備するついでに、子竜用に小さな器に井戸水を入れておく。
 さらにフロルは、隠し持っていた芋をふところから取り出す。子竜がそれを食べるかはわからなかったけれど、水だけでは可哀想な気がしたのだ。
 ブール草の入ったおけを馬の目の前に置いてやると、彼らはすぐに顔をつっこみ、がつがつと食べ始める。
 それを見てから子竜の姿を探すと、びっくりするような光景が目に入った。

「えっ? えええっ?」

 なんと子竜は、エスペランサと一緒に、同じおけから草をはむはむと食べているではないか。
 ……よくもまあ、エスペランサが子竜を受け入れたな、と驚きながら、その様子を眺める。
 それにしても、竜がブール草を食べるとは知らなかった。
 エスペランサはフロルの視線に気がつくと、草を食べるのをやめてこちらをじっと見返す。それを見習ってか、子竜も同じように小首を傾げてフロルを見つめる。

「……エスペランサ、子竜にえさを分けてあげてたんだね? えらいなー」

 そう声をかけると、エスペランサは、えへんと胸を張った。フロルが首をぱんぱんとでてやると、エスペランサは尻尾をぷらんぷらんと揺らして嬉しそうな顔をする。
 ところが、何故かそれが子竜の気にさわったようだ。子竜は口をへの字に曲げて、てけてけとフロルの足元にやってきた。そして、どんっと、フロルに体当たりする。

「わっ……」

 フロルはバランスを崩して、馬用の干し草に倒れ込んだ。すかさず子竜が、ぴょんっとひざの上に乗ってくる。

「な、なに?」

 怪訝けげんな顔をするフロルに、子竜は自分の頭をにゅっと突き出した。

「……まさか、モフれと?」

 半信半疑でつぶやくと、子竜はぱあっと嬉しそうな顔をする。
 しょうがないなあと、フロルがよしよしと竜の首筋をでてやると、子竜は気持ちよさげに目を細めて、きゅう……と小さい声で鳴いた。
 子竜は、どうやらエスペランサに嫉妬しっとしていたらしい。
 それからしばらくの間、フロルがさんざんでてやったので、子竜は満足したのだろう。
 子竜は、用意してやった小さな容器から水をごくごくと飲んだ後、馬小屋の隅にあるわらの山の天辺てっぺんによじ登った。そしてモソモソとわらに潜り込み、すぐにすやすやと寝息をたてはじめた。

「……まだ子供だもんね。仕方がないか」

 とりあえず子竜は暴れる様子はないし、静かにしているようだったので、フロルは少し安心してそっと馬屋を後にした。
 誰も入れないよう、しっかり戸締まりするのを忘れずに。


 翌朝早く、まだ宿泊客も両親も寝静まっている頃、フロルは再び馬小屋の扉を開けた。
 早速子竜が自分を見つけて、ぽてぽてっと足元に寄ってきた。フロルはすぐに子竜を抱き上げ、かごを背負って音を立てないようにそーっと森へ向かう。
 もちろん、誰にも見つからないうちに、この子を元の場所に戻しに行くのである。
 両親には昨夜のうちに、朝からブール草をりに行くと伝えてあった。
 フロルは子竜を腕に抱きながら、森の中を歩く。しばらくすると、最初に子竜を見つけた茂みに到着した。

「きゅん……」

 なんだか可愛らしい鳴き声を発しながら腕の中でじっと自分を見上げる子竜に、フロルは言う。

「お母さんが来るまで、ここにいなきゃダメだよ?」

 まるで自分のペットをこっそりとてに来たような気がして、フロルの胸は痛む。けれど、他に方法がない。万が一、騎士に子竜のことがバレたら大変なことになる。
 それに、竜なんてどうやって育てていいかわからない。もしかしたら、この子が大人になったあかつきには、小山一つ分くらいの大きさになるかもしれないのだ。

(竜を飼うなんて、絶対に無理!)

 無理やり自分に言い聞かせて子竜を茂みの中に隠し、そっと立ち上がった。

「ぴゅう……」

 寂しげに鳴く子竜に、フロルは黙ってくるりと背を向けた。かごを背負い直して、さらに森の奥深くへ進む。
 今日は、もっとたくさんブール草を採取しなくてはならない。最近、ダーマ亭に騎士たちが泊まる頻度が随分ずいぶんと増えた。客が増えた分、馬小屋に泊まる馬も多くなったので、余計にブール草が必要になるからだ。

「きゅん……」

 立ち去ろうとするフロルを呼び止めるかのように、子竜は寂しそうな声で鳴く。けれどフロルは、振り返らなかった。


   ◇


 置き去りにされた子竜は、フロルの姿が完全に見えなくなるまで、じっとその背中を見つめ続けた。
 ……それからしばらくした頃。
 子竜は頃合いを見計らったかのように、茂みからよたよたとい出す。
 フロルに「ここにいろ」と言われたことなんて、子竜の頭の中にはこれっぽっちも残っていないのである。
 背中にえている小さな羽をにゅっと広げて、ぱたぱたと羽ばたく。飛んだというには心許こころもとなく、弱々しい様子ではあったが、なんとか地面から一メートルくらいの高さに浮かぶことができた。

「ぴゅう」

 まともに飛べたのが初めてのことだったので、子竜は少し嬉しくて鳴いた。それから子竜はふらふらしながらも、そのままゆっくりと飛んでいった。
 ……ダーマ亭がある方向へ。


   ◇


 子竜がふらふらと森の中をおぼつかない様子で飛んでいる頃。
 騎士であるギルバート・リードは、いつものようにダーマ亭に泊まり、用意された朝食をすっかり平らげたところだった。
 みんなからギルと呼ばれ親しまれている彼は、短く刈り込んだ銀の髪に、青い瞳。端整な顔立ちに自信ありげな笑みを絶やさない。
 ギルはリード子爵の三男だ。今は王立騎士団の中の、騎馬騎士隊の隊長を務めており、部下の人望も厚い。騎馬騎士隊は、普段は騎馬隊と呼ばれていて、遠征を得意とする部隊だ。
 他の爵位を持つ騎士たちはもっと上等な宿を利用しているが、堅苦しくなく便利な場所にあるダーマ亭をギルは好んでいた。
 彼が出立の準備をして外に出ると、愛馬のエスペランサはすでに支度したくを終え、宿屋の前で自分を待っていた。
 今日は予定がぎっしり詰まっていることを思い出しながら、ギルはさやに収まった長い剣を腰のベルトに差し込み、落ちないようにしっかりと固定する。
 ギルの相棒であるエスペランサは勇猛果敢ゆうもうかかんな馬だが、とても気難しい。
 その気性で馬丁ばていを泣かせ続けるエスペランサにとっても、ダーマ亭は居心地がよいらしく、ここに泊まるとすこぶる機嫌がいい。それは、騎士団にとっても負担が軽くなることを意味するので、そういう意味でもギルはダーマ亭を気に入っているのだ。
 支度したくを整えたギルは、愛馬のエスペランサにまたがり、颯爽さっそうと走らせる。
 今回のミッションは、聖剣の発掘である。
 どういうわけか、ダーマ亭周辺には女神フローリアを祭る神殿が多く存在する。現在も神殿として機能しているものもあれば、すでに廃墟はいきょとなっているものもあった。
 その一つ一つを探索し、失われた聖剣を見つけなければならない。
 時折、神殿の巫女みこが神託を受け、聖剣のありかを伝えてくるのだが、その度にギルの部隊は駆り出され、聖剣の探索に奔走ほんそうしなくてはならなくなる。しかし神託は今一つ具体性に欠け、発見の決め手になる情報が不正確なせいで、いまだに聖剣なるものは発見されていない。
 ギルは馬をしばらく走らせ、合流地点に到着した。まだ定刻まで時間はあるが、他の宿屋に泊まっていた騎士たちも、ぱらぱらと集まり始めている。
 その顔ぶれの中に、宮廷魔道師長のライル・ノワールを見つけた。彼は騎士たちにじって、いつものように神経質で気難しい顔をしていた。
 ギルは馬からひらりと降り、部下に手綱たづなを渡すと、そのままライルに向かってまっすぐに歩を進めた。

「よう、ライル。朝から不機嫌か。相変わらずぶれないやつだな」

 ギルが茶化すと、ライルはぶすっとした顔で言う。

「私は来たくなかったんだがね。ミリアム殿下がどうしても、と言うから」
「ああ、今回は殿下も同行されると聞いて、俺たちも驚いているんだが。その理由を聞いてもいいか?」
「今回の遠征のついでに、殿下が子竜を見つけて帰りたいんだそうだ」
「子竜?」

 ギルはそれを聞いて、首を傾げる。ライルは溜め息をつき続けた。

「最近、この辺りあたで子竜の目撃情報が頻繁ひんぱんに報告されていてね。それで、殿下の悪い癖がまた出てしまったようなんだ」
「……あの、魔獣コレクションか?」
「ああ。目撃された子竜っていうのが、どうも氷竜ひょうりゅうのようでね」
「希少な竜と言われている?」
「どうもそうらしい。殿下が、それをぜひ手に入れたいと」

 ミリアム王太子の趣味が魔獣収集であることは、王宮では誰もが知る話である。特に珍しい魔獣には目がないので、氷竜ともなるとのどから手が出るほど欲しいのだろう。
 面倒臭げな表情を浮かべるライルを見て、ギルは苦笑しながら言う。

「遠征に同行するのが目的ではなくて、子竜を捕まえに来たというのが正しいのだろうな」
「ああ、殿下の魔獣好きにも困ったもんだよ。この前、三ツ目のへびを手に入れたばかりなのに」
「魔獣の世話係は大変だな」
「……この半年で、もう三人も辞めたよ」

 ひとりは魔獣に襲われかけて危うく命を落とすところだったんだ、とライルは溜め息混じりにつぶやく。

「それで、引きこもりのお前も連れてこられたわけか」

 ギルは合点がいったとばかりに頷く。ライルはよほどのことがない限り、外に出ようとしないからだ。

「ああ、竜を捕獲する時に、暴れでもしたら、魔術でないと対抗できないかもしれないからな」

 げんなりとした様子のライルに同情しつつ、ふと思いついて、ギルは問いかける。

「で、お前はダーマ亭に泊まるのか?」

 聞いた後で、ギルは心の中で首を横に振る。
 神経質なこの男が、庶民的なあの宿を気に入るとは思えない。
 案の定、予想した通りの答えが返ってきた。

「いや。私は庶民的なところが苦手でね。殿下とともに貴族の屋敷に泊まるよ」
「やっぱりな」

 ギルとライルは正反対の性格だったが、ふたりはどういうわけか、仲のよい友人でもあった。
 肩をたたき合いながら、お互いに苦労するな、と笑った。


   ◇


 その日の午後。森の中から長い道のりを経て、フロルはやっと宿屋へ戻ることができた。
 早朝から森の中をうろつき、たくさんのブール草をった。
 きっと今頃、子竜は母竜に会えているだろうと思いながら、井戸水を木桶きおけんで、その中にってきたばかりのブール草を入れた。
 それから馬屋の扉を開けて、その中へ運び込む。

「ああ、今日は長かったな」

 クタクタで、足は棒のようだ。馬屋の中で、やれやれとフロルは腰を伸ばす。

「きゅう」

 そんなフロルの背後で、聞き覚えのある鳴き声が響いた。
 今朝ててきた子竜の鳴き声にそっくりなのは、気のせいだろうか。
 現実逃避したくなりながら、フロルがおそるおそる振り返ると、そこには見たくない光景が広がっていた。
 馬小屋の隅にうずたかく積み上げられたわらの頂上から自分を見下ろしているのは、まぎれもなく、朝置いてきぼりにしたはずの子竜だった。目をキラキラと輝かせ、とても嬉しそうな顔でフロルをじっと見つめている。

「な、なんでここにいるのっ⁉」

 驚いて叫ぶフロルを見て、子竜はぱたぱたと羽ばたきながら、嬉しそうにわらの上から舞い降りた。それから急いでフロルに駆け寄ろうとして、ずるっと滑って転んだ。

「きゅうぅ」

 地面に転がった子竜は立ち上がろうとせず、上目遣いでフロルを見て甘えたように鳴く。

「あーあ、もう……」

 ほだされちゃいかんと思いながらもフロルが抱き上げてやると、子竜の顔がぱあぁぁっと輝く。

「飛べたんだね? で、帰ってきちゃったわけか」

 子竜を腕にかかえたまま、フロルは一体どうしたものかと思案するが、全くといっていいほどいい案が浮かばない。
 もうすぐ日が暮れる。魔獣がうろつく夜の森に、また子竜を戻しに行くことはできなかった。

「いい? 馬屋に泊めるのは今夜までだからね」

 仕方なくフロルが言うと、子竜は目を輝かせて「きゅう」と嬉しそうに鳴いた。


   ◇


 ……それから三日後。今日も相変わらず、子竜は馬屋にいる。

「うう……どうして、こうなった……!」

 馬屋の中で、子竜はエスペランサと楽しげに遊んでいる。その様子を横目で眺めながら、フロルはひとり頭をかかえた。
 人気ひとけのない早朝に子竜を森に帰し、ブール草をって夕方家に帰ってきたら、てたはずの子竜が馬屋にいる……ということが続いて、はや三日。

(今までの努力は無駄でしかなかった……)

 フロルはがっくりと肩を落とす。
 今朝に至っては、ブール草をりに向かうフロルのかごの中に、子竜は『待ってました!』とばかりに入り込んできた。毎朝森へ行くことを、ちょっとしたお出かけか何かのように思っているようだ。
 そういうわけで困り果てたフロルは、その日の午後に村の図書館を訪れていた。子竜のことを少しでも知れば、何かよい策が浮かぶのではないかと調べに来たのだ。

「えーっと、竜の本、竜の本は……と」

 平日の午後の図書館は閑散かんさんとしている。竜に関する本を探そうと、フロルはきょろきょろとあたりを見回した。
 何がなんでも、子竜には森に帰ってもらわねばならない。
 竜を手元に置いて家族をこの件に巻き込むことはできないし、さりとて騎士たちに差し出すのは子竜が可哀想だ。きっとこのあたりで、子供を探している母竜がいるに違いない。
 できることなら、お母さんのところへ帰してあげたい。
 司書のお姉さんに尋ねながら、フロルはやっと竜に関する本があるセクションを探し当てる。
 その中から一冊を手に取り、ぱらぱらとめくると、色々な種類の竜の姿絵や特徴が書いてあった。火竜かりゅううろこ赤銅色しゃくどういろをしていて、ブレスは火。緑竜りょくりゅうは、鱗が緑色……と。
 では子竜のような青銀のやつは何かと探すと、そこには氷竜と書いてあった。

(あ、これだ。これと同じやつだ)

 本によると、竜は地上最強の魔獣と言われているらしく、その中でも氷竜は珍しいとのことだ。本棚には他にも面白そうな竜の本がたくさん見つかった。
 フロルは夢中になって、両手からこぼれ出さんばかりに竜の本を抜き取る。それをかかえて歩いていた時だった。
 何気なく振り返った瞬間、どんっと誰かにぶつかって、大きく尻餅しりもちをつく。
 かかえていた本が、ばさばさと大きな音を立てて床の上一面に散らばった。

「ああ……ごめんね。私がよそ見していたせいだ。大丈夫だったかい?」

 耳に心地よく響く柔らかな声。
 フロルがぶつけた鼻をでながら立ち上がると、その声のぬしが目に入る。

(うわ……綺麗な人)

 その人は黒くつややかな髪を後ろで一つにくくっており、ほっそりした顔立ちで、とても綺麗な男性だった。女性と言われてもわからないくらいすらっとした、細身の体。フロルを見つめる切れ長の目は涼しげで、海のように深い紺色こんいろをしている。
 その人の硬質な美しさと柔らかな声色に、フロルは一瞬ぼけっと見惚みとれてしまったが、すぐに我に返った。

「あ、あのっ、だ、大丈夫です」

 フロルは、あわてて散乱した本を拾おうとする。

「私も手伝うよ」

 そう言って手を伸ばしかけた綺麗な人は落ちている本の題名を見て、はっとした顔でフロルを見つめた。

「……君は竜が好きなの?」

 フロルは、この男の人が宮廷魔道師の制服を着ているのに気がついた。この人は王宮の関係者だ。
 やばいやばいやばい。
 緊急警報がフロルの頭の中で鳴り響く。
 子竜が森から馬屋に戻ってくる途中に、誰かに見られて噂になっているのかもしれない。

「……どこかで子竜とか見なかった?」
(やっぱり、そうきたかー!)

 平静を装いつつも、フロルの背中につーっと嫌な汗が流れる。「こういう竜だけど……」と、その男性が綺麗な指で示した先には、やはり氷竜の姿があった。

「あ、あはは、いや、りゅ、竜は見たことないけど、なんだか面白そうだと思ってー」

 フロルは愛想笑いをしつつ、彼が拾ってくれた本を受け取った。そして動揺を悟られないように、深々と頭を下げる。

「どうもありがとうございました」
「……そう。じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
「あ、はい。じゃあ、どうも」

 へらへらと顔に愛想笑いを貼りつけたまま、フロルはそそくさと逃げるように歩いていったのだった。


   ◇


 その少女の後ろ姿を、宮廷魔道師の制服を着た男――ライルはじっと見つめていた。
 彼の口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。

「……なかなか面白そうな子じゃないか」

 魔道師の嗅覚きゅうかくは鋭く、特殊な人間をかぎ分ける能力がある。

(こんな田舎に、あんなに面白い子がいるなんて)

 興味をそそられたライルは、図書館司書の女性に声をかける。

「さっきここを通っていった子が落とし物をしたらしいのですが、どこの子かわかりますか?」

 実際には、落とし物などない。あの子の身元を確認したいだけだ。小さい村だから、それはきっと簡単だろう。

「はい。落とし物はこちらでお預かりして、後で連絡しておきます」

 司書の言葉は丁寧だが冷たい。見知らぬ男を警戒するような視線に、ライルはすぐに気がついた。ここは田舎だけに、よそ者に対する警戒心がかなり強いらしい。


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