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しおりを挟むプロローグ
厳しく暗い冬が終わりを告げ、色とりどりの花が美しく咲き乱れる、春の日の午後。
太陽の光が木々の間から差し込み、あちこちにあたたかな陽だまりを作っている。
とある地方の、小さな神殿に続く階段の上。
そこに、まだ生まれたばかりのほんの小さな赤ん坊が、たったひとりで置き去りにされていた。
その子は柔らかそうな布でそっと巻かれ、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。
長い睫毛に、整った顔立ち。柔らかでまん丸な頬には赤みがさし、見るからに元気そうだ。
そんな赤子を取り囲むように、どこからともなく、くすくすと微かな笑い声が辺りに響く。
すると形を持たない者たちが金や紫など様々な色の光を纏いながら、どこからともなく現れ、地上にふんわりと降り立った。
それらは、人々から大精霊と呼ばれる存在。
女神の僕であり、森羅万象を司る彼らは、今日のこの日を長い間ずっと待ち望んでいた。この子が生を受け、地上に現れる特別な日だったからだ。
まず最初に、光の精霊が囁くように歌う。
「この子に、我らの加護を授けると約束しましょう。希望の光が、常にこの子を護りますように」
今度は風の精霊が、祝福を授ける。
「では、私はこの子に、贈り物を授けましょう。全ての風が、この子の僕になりますように」
「では私も、この子に祝福を与えましょう。全ての生きとし生ける植物たちが、この子に豊穣を与えますように」
森の精霊はさわさわと木の葉を揺らして誕生を祝った。その横では、水の精霊が赤子の傍へ舞い降りる。
「世界に満ちる全ての水が、この子の命に従いますように……」
次に、大地の精霊がのんびりとした調子で口を開いた。
「私は、全ての大地の祝福をこの子に与えましょう」
精霊たちは祝福という名の贈り物を、つぎつぎに赤子へ授けていく。
「時が満ちるまで、この子に守護を授けましょう」
時を司る精霊は赤子の横に降り立ち、柔らかな頬にそっと口づけを落とす。
「一番大切な、平凡という名の幸せを貴女に授けましょう。ありきたりの、けれども、かけがえのない貴重な普通の生活を」
クスクスと笑いながら、精霊たちは赤子の周りをぐるぐると回る。
すると、それらの姿が次第に透けていった。肉体を持たない精霊たちがこの世に現れるには大変な労力を伴うため、長時間その身をとどめられないのだ。
赤子をここにひとりで置いていくのはとても名残惜しいが、もう行かなくてはならない。
そう思い、精霊たちは寂しげに微笑む。
「ふぁあ……」
赤子は、何かの気配を感じたのだろうか。長い昼寝から目覚めて、元気な泣き声を上げ始めた。
「あら、いけない。誰か来るわ……」
「さあ、もう行かなくては」
「元気でね。私の……可愛い……フローリア……貴女が目覚めるまでの間、私たちの祝福が薄れないようにしておきましょうね」
精霊たちはひとりずつ、後ろ髪を引かれるように赤子の頬をそっと撫でると、つぎつぎに飛び立ち、空に溶けるように消えていく。
たったひとり、地上に残された小さなフローリアは、小さな手を握り締めて大きな声で泣いていた。
◇
「あら、まあ。この子、どこの子かしら?」
神殿で働く巫女が泣き声を聞きつけて神殿の正面玄関に出てきて、階段に置かれた赤子を捉えた。
「……可哀想に。まだこんなに小さいのに、置き去りにされたのね……」
巫女は赤子をそっと抱き上げ、保護者がいないか辺りを見回す。しかし、神殿の周りには人の影一つ見当たらず、この子は棄てられたのだと納得する。
親には、子供を棄てなければならない事情があったのだろうと察した。神殿に棄てられる子は珍しくなく、その中には、何日もまともに食べ物を与えられない者もいるのだ。この子も、同様に酷い目にあったのかもしれない。
巫女が心配そうに赤子の顔をのぞき込むと、ふっくらとした頬には赤みがさしている。見るからに健康そうだったので、ほっと胸を撫で下ろした。
「……それにしても、整った顔をしているのね。この子」
長い睫毛に、小さくてちょこっとした鼻、さわやかな緑の瞳。
巫女が指を差し出すと、赤子は泣きやんで、もみじのような小さな手でぎゅっとそれを掴む。そして彼女をじっと見つめてから、小さな顔に花がふんわりと咲くような笑みを浮かべる。
なんて可愛いのだろう。巫女の胸が甘く疼く。
この子に素敵な里親を見つけてあげなくては。この子を我が子のように思い、大切に愛おしんで育ててくれる若い夫婦を。
早春の若草を思わせる緑色の瞳をした子は、巫女に大切に抱かれ、神殿の中へ連れていかれた。
第一章 竜を拾ってしまった
「フロル、お願い。ブール草を採ってきてくれない?」
「わかった。洗濯物を干したら、行ってくるよ」
フロルは庭先で洗濯物を干しながら、母親に大きな声で返事をする。そして、籠の中に残っていた最後の一枚のシーツを、勢いよく物干し竿へかけた。
ありふれた、いつもの午後の光景だ。
フロルの両親は、とある街道沿いの庶民的な宿屋――ダーマ亭を営んでいる。
実は、フロルはこの家の本当の子供ではない。
ずっと昔、どこかの神殿の前に棄てられていたのを拾われたのだった。そして、神殿の巫女は彼女をこの国の女神様と同じ名――フローリアと名付けた。一目見た時に、これ以上ふさわしい名前はないと思ったそうだ。今はフロルという愛称で呼ばれている。
そして、縁あってこのダーマ亭の養女となった。この家に引き取られた後に、両親に新しく男の子が生まれたので、今では弟を加えた四人家族である。
弟のウィルは生まれてから一度も喋ったことがない。そもそも声を出すことができないのだ。
医学的には、ウィルの治療は不可能ではない。こんな片田舎のやぶ医者ではなく、王都にいるような腕のいい医者に診せ適切な治療を施せば、きちんと話せるようになるのだという。
ただ、治療費が高額すぎる。
その額、銀八十枚。
村人の平均収入は、月に銀一枚にも満たない。途方もない金額を前に、フロルはがっくりと膝をつくしかなかった。
せちがらいが、世の中は金だ。
それが全てではないけれど、悔しいことに、田舎の宿屋がそんな大金を捻出することは不可能だ。
(ウィルのためになんとかしてやりたいけど……)
フロルが悩みながら顔を上げると、家の窓ガラスに自分の顔が映り込む。
そこには、小さな女の子の姿があった。緑色の瞳に、淡い金の髪、あどけない顔立ち……
フロルはあと数ヶ月で十七歳の誕生日を迎えるというのに、身長はいまだに百二十センチのままだ。ちなみに、本当の誕生日がわからないので、一応、神殿で拾われた日が誕生日ということになっている。
七歳の誕生日を迎えてから、どういうわけかフロルの成長はぴたりと止まってしまったのだ。その後、何年経っても、成長する兆しは一向に現れなかった。
平民なりにできる範囲ではあったが、両親は心配して、フロルを連れてあちこちの医者を巡り歩いた。けれど医者たちは、首を傾げるばかり。結局、その原因がわかる者は誰ひとりいなかった。
学校では、だんだん大人になっていく同級生の中で、子供のままちっとも成長しない自分だけが悪目立ちする。いつしか周囲とは馴染めなくなっていった。やがてフロルは仲間からはじき出され、背後でコソコソと意地悪な陰口を叩かれるようになった。
そのせいで、もう何年も前にフロルは学校に行くのをやめてしまった。
宿屋に閉じこもるフロルを、『学なんかあったって何にもなりゃしない。お前はこの宿屋を継げばいいさ』と、両親はあたたかく受け入れてくれた。
ふと昔のことを思い出して、フロルは悔しくてきゅっと唇を固く結ぶ。そして、ひとつ小さな溜め息をついてから、頭をぶんぶんと横に振った。
ここにいれば、宿屋を手伝ってさえいれば、惨めな自分の姿を人前にさらさなくていい。宿屋で働いてさえいれば、人から陰口を言われ、嘲笑され、いじめられることもない。
お客さんのシーツを洗濯し、馬屋にいるお客さんの馬を世話する。それだけの代わり映えしない毎日だったが、自分なりに充実した日々を過ごしていた。
馬の世話はほとんどフロルがひとりでしているが、ダーマ亭に泊まると馬たちの調子がすこぶるよくなると、客からの評価は高い。その秘訣は、フロルが森の中から取ってくるブール草にあった。ブール草は、馬の体にとてもいいのだ。ダーマ亭に泊まる馬たちにそれを与えているおかげか、街道沿いの宿屋の中でも、ダーマ亭は破格の勢いで繁盛している。
「よし、これで終了っと」
この地方は乾燥した気候なので、洗濯物がすぐに乾くのがいいところだ。フロルは洗濯物を干し終えて、ブール草を入れるための籠を取りに馬屋へ向かう。
馬屋の扉を開けると、そこに漆黒の大きな軍用の馬がいるのを見つけた。
馬は見るからに筋骨隆々で、期待に満ちた眼差しでフロルをじぃっと見つめている。
「エスペランサ! 来てたの⁉」
フロルが笑うと、馬も嬉しそうに鼻を鳴らし、掻くように前足を地面に打ちつける。それがこの馬なりの喜びの表現であることを、フロルはよく知っていた。
エスペランサは、この街道を頻繁に通る騎士が所有する馬だ。
ダーマ亭は広大な森を貫く一本道の途中の、旅人が王都へ向かう際に必ず通らなければならない場所にある。そのため、王宮勤めの騎士が訪れることも少なくないのだ。
この馬の主人はいつもこの宿屋に一泊して、翌朝早くに出立する。その人の顔を見たことはないが、この馬は何度もお世話しているので、すっかりお馴染みさんになっていた。
「母さんがブール草を採ってきてって言ったのは、お前にあげるためだったんだね?」
フロルが籠を抱えながら言うと、馬は落ち着かない様子で嬉しそうにフロルにすり寄ってきた。ぎゅっと馬の首に掴まり、エスペランサの逞しく張りのある胸筋を撫でてやる。
うう、この、もふもふ……たまらないー。
宿屋に泊まっている中では、この馬が一番のお気に入りなのだ。
エスペランサからは、よく干した草のようないい匂いがする。騎士たちが保有する馬は清潔だから、フロルも遠慮なく馬とのスキンシップを楽しむことができる。
もっふもっふの感触をフロルが堪能している間、エスペランサもまた、フロルの頬にスリスリと顔を寄せ、久々の再会を喜んでいる。
「じゃあ、ブール草を採ってくるね? いい子にしてるんだよ?」
わかりました! と言わんばかりの仕草で、ひひんと嘶くエスペランサ。その声に送り出され、フロルは籠を背負って、森の中へ入っていった。
馬はブール草が好きだ。馬にとってはとびきりのご馳走らしい。
「ブール草……さて、今日はどこで採ろうかな」
午後の遅い時間に森に入って一時間ほど歩くと、ブール草があちこちに生えている場所に出た。
ブール草を見つけるのはとても簡単だ。
そうして、フロルは夢中になって、ブール草を好きなだけ採取する。ふと気がつけば、太陽が西に沈みかけ、木々が細長い影を地面に落としていた。
「ああ、ちょっと遅くなっちゃったな……もうすぐ魔物が出るかもしれない」
この森には、夜になると魔物が出る。
魔物は動物を喰らい、人も喰らう。時折、道に迷った旅人や小動物が道ばたで無残な姿で発見されるが、それはすべて魔物の仕業だ。
早く帰らないと、自分だって同じような目にあうかもしれない。フロルが、急いでダーマ亭に足を向けた、その時だった。
「きゅん!」
自分を呼び止めるように、動物の鳴き声が聞こえる。
フロルは思わず歩みを止め、辺りをキョロキョロと見回すが、これといったものは見当たらない。あれは、気のせいだったのだろうか。
「……きゅん……」
すると、今度は少し小さめの鳴き声が聞こえた。その声は、どうやらすぐ近くの茂みの中から聞こえてくるようだ。
(この鳴き声はなんだろう? 犬でも猫でもないし。森のリスや、子鹿とも違うし……)
フロルは不安げに、西に傾くオレンジ色の太陽へちらりと視線を向けた。もうすぐ日が暮れる。小さな動物なら、魔物の格好の餌食になるはずだ。
それが少し心配になって、フロルは、そっと声のするほうに近寄った。驚かせないように、そうっと茂みを掻き分けると、ぴょんと何かが勢いよく飛び出してくる。
「ひゃあっ」
驚いて尻餅をついた拍子に、背負った籠の中からブール草が地面にこぼれ落ちた。
「あー、もう、せっかく摘んだのに……」
フロルは、草を拾おうと身を起こす。その時、何かがフロルの膝の上へ飛び乗ってきた。
「えっ? ええっ?」
目を丸くし、フロルは素っ頓狂な声を上げる。
「な……なんで? なんで竜?」
子竜が膝の上で、つぶらな瞳でフロルをじっと見つめていたのだ。
竜はこんな田舎にいるはずがないと、フロルは慌てる。
「ダメッ、ダメだよ。竜なんて」
この国では、竜は神の使いと言われている神聖な生き物だ。それ故に、平民が竜に触れることは禁止されている。
フロルは膝の上の子竜をそろそろと地面に置いた。それから優しい声で話しかける。
「ねぇ……お前のお母さんはどこにいるの?」
「ぴゅ?」
子竜はわからないと言いたげに小首を傾げた。可愛らしいが、ここに留まるわけにはいくまい。
フロルは見なかったことにしようと、子竜を抱き上げそのまま茂みの中へ戻す。
「ぴゅう?」
子竜がフロルを見上げて、もう一度、か細い声で鳴く。不思議そうに自分を見つめる子竜に、フロルは言った。
「いい? お母さんが来るまで、ここから動いちゃダメよ?」
そろそろ暗くなり始める。早く帰らないと、魔物に襲われるかもしれない。
子竜のことは心配だったが、母竜がきっと傍にいるはずだ。ここで大人しく待っていれば、きっと母竜が迎えに来てくれるだろう。
母竜には遭遇しないほうがいいに決まってる。
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フロルは籠を背負い直して、子竜を隠した茂みに背を向けた。
最後にちらっと背後を見ると、茂みから子竜がモソモソと這い出してきた。そして、ぽてぽてとフロルの足元に駆け寄ってくる。
「だから出てきちゃダメだって言ってるでしょう?」
慌ててもう一度茂みに戻すが、やはり子竜は出てきてしまう。
「ぴゅう」
ぴたりと足に密着し甘えた声を上げる子竜に、フロルは困惑した視線を向けた。
とても懐いてくれているようだが、子竜を飼うわけにはいかない。もし、平民が竜を手に入れたことがバレれば、自分だけでなく、家族全員に厳罰が下される。
事情によっては死罪にさえなりかねないので、なんとかして離れてもらわなければ。
その後、何度、茂みに戻しても、子竜はすぐに出てきて、フロルから離れない。そうこうしている間に、日はどんどん傾いていく。
「あああ、もうっ」
離れてくれないので、ついに根負けして、子竜をそっと抱き上げた。
このまま森の中に置き去りにすれば、魔物に襲われるかもしれない。フロルは仕方なく子竜を連れ帰ることにした。両親にバレたら大変なので、子竜は馬屋にでも隠しておこう。
「一晩だけだからねっ!」
たしなめるように言うと、子竜は嬉しそうに、ぴゅうっと鳴いた。
◇
ちょうどその頃。
王宮の一室では、国の重要人物が集まり、白熱した議論を展開していた。
集まった人物の中で、一際異彩を放つ男がいる。
彼はライル・ノワール宮廷魔道師長。
ライルは、二十代の若さで宮廷魔道師のトップにまで上りつめた。彼の魔力は歴代の魔道師長の中でも群を抜いて強く、その膨大な魔力を操る技能もまた卓越していた。
彼は艶やかな長い黒髪を後ろで一つに束ね、海のような濃紺色の瞳は気だるげである。
ライルは目の前で熱弁をふるっているバルジール大神官を、ひたすら呆れた様子で眺めていた。やがて、我慢できなくなったのか、侮蔑の色も露わにしながら口を開く。
「神殿の巫女がなんと言おうと、私は、そんな伝説が現実になるとは思えませんがね……」
魔道師には、社会性などというものは全くない。何故かと問われても、それが魔道師なのだ。
「魔道師長がなんとおっしゃろうと、神のお告げでは、女神様の生まれ変わりがすでにこの世界に現れているのです」
憤るバルジールに、ライルはふふっと嘲笑を漏らす。
「女神の生まれ変わりに祝福を与えられれば国が繁栄するという、あの伝説のとおりにですか?」
神の代理人として権威主義を地で行く神官と、実力主義の魔道師。両者の理念は、相容れることはない。神官と魔道師が対立するのは、いつもの光景である。
「ノワール魔道師長、たまには大神官の言うことも聞いてあげたらどうなんだい?」
ミリアム王太子がやんわりと仲裁に入る。
「確かに過去の歴史においては、女神の生まれ変わりが出現して、奇跡を起こした例があるんだ。女神の生まれ変わりを保護するのは、我々王族の責務なんだよ。特に我が国ではここ数年、稀に見る豊作が続いている。こんな風に桁外れの豊作は、女神が再来する前触れとも言われているしな」
「それで、その伝説の乙女という者には、どういう特徴があるのですか?」
会議に参加している別の者から質問が飛び、バルジールがそれに応じた。
「神託によると、現在の年齢は十六歳から十九歳。フローリアという名であることは間違いないんだが……」
「フローリア以外の名前である可能性はないのか?」
王太子の質問に、バルジールが厳かに答える。
「それは絶対にありません。我らが見分けられるように、生まれ変わりの娘には必ずフローリアという名前がつけられることになっているのです」
「絶対に、フローリアという名の娘であるのだな?」
王太子が念を押すように聞くと、バルジールは力強く頷いた。
「さようにございます」
「その女神の生まれ変わりが、この世に生まれた時から奇跡を起こせる可能性は? そうすれば、発見するのもたやすくなるだろう?」
「残念ながら、女神として覚醒する前は、なんら普通の娘と変わらないそうです」
「では、その生まれ変わりの娘はどうやって覚醒するんだ?」
「それが、百年前の神殿の火災で古文書が焼失し、詳細はわからなくなってしまいまして。古文書が残っていれば、女神様の生まれ変わりを発見するのもたやすかったのですが、今は巫女の神託が唯一の手掛かりでして……」
王太子が重ねた問いに、バルジールは言葉を濁した。王太子はさらに尋ねる。
「その娘を見つけられないと、何か問題があるのか?」
「懸念すべきは、覚醒前の女神が一番、不安定で危険だという言い伝えが残っていることです。生まれ変わりの身に宿る聖なる力を狙って、つけ込もうとする闇の力も存在しているとか」
「その闇の力とは一体なんだ?」
王太子の質問に対して、バルジール大神官は残念そうに口を開く。
「それも、古文書の焼失によって、全く不明なのです。比喩としての意味なのか、本当に実体のある存在なのか……」
「それすら不明なわけだ」
王太子が溜め息混じりに呟いた。
「はい、残念ながら。ですから、女神様が覚醒する前に発見して、この神殿にて保護しなくてはなりません。それは、この国で女神様を信仰する我々の義務なのです。そして、闇の力から女神をお守りするための聖剣も探し出さなくてはなりません」
「それについては、騎士団からも一言申し上げたいことがあります」
老年にさしかかった白髪交じりの騎士団長がすっと立ち上がり、円卓にずらりと座っている重鎮たちを静かに見つめた。彼の口元には厳しい表情が浮かんでいて、その声は固かった。
「その神殿の巫女の神託通りに、聖剣があるとされる地域一帯をくまなく探しておりますが、何一つ手がかりらしいものは見つかりません。どれだけ入念に探しても見つからないので、騎士団の中には、神託の信憑性を疑う者も少なからずおります。巫女殿のお告げを、というよりは、神託の解釈が違うのではないかと」
「神託を信じないわけではないのだが、もう少し精度を上げることはできないのか?」
騎士団長の言葉を受け、王太子が大神官に問う。
「巫女が神託を受け取るには、非常に高度な技が必要なのです。今は、先代の巫女が引退した直後で、まだ優秀な後継が育っていません。にもかかわらず、女神様の生まれ変わりの出現が預言されたという、実にタイミングの悪い状況でして……」
「それでは、これ以上詳しい情報を知るのは難しいということか……」
騎士団長はバルジールの返答に苦々しく呟いた。
「で、我が国には今、フローリアという名の娘が何人いるんだい?」
ライルの質問に、統計課の文官が几帳面に答える。
「七千人弱くらいですね……正確には、六千八百九十五人です」
「そんなにいるのか? ……全く、自分の娘に神話の女神と同じ名をつけるバカがこんなにもいるとは思わなかったね」
ライルはやれやれと肩をすくめた後、重ねて問いかけた。
「その中で、十六歳から十九歳のフローリアは何人いるんだ?」
「おおよそ、八百五十人程度かと」
「そのフローリアの中に本物がひとり交じっていると」
王太子の発言に、重鎮たちは顔を見合わせ、一斉に溜め息をつく。
「そのフローリアたちにひとりひとり聞いて回るか? 『貴女は女神の生まれ変わりですか』って?」
会議の参加者のひとりが声を上げると、他の文官が悩ましげな様子で口を開く。
「……それは不可能だ。自称女神の生まれ変わりが、わらわらと出てくるだろう」
「本物は自分が女神の生まれ変わりだなんて、きっと露ほども思ってはおらんでしょう」
騎士団長の指摘に、全員が肩を落とした。
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