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第三十二話 〈2〉

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     ◆   ◇   ◆



「……お前たちはどうしてそう阿呆なんだ」
「…………返す言葉もございません」

 一週間後。久方ぶりの報告会にて。『最近のお嬢様』について語った結果、決闘(ダンス)の件にも触れることになった俺に、旦那様は心の底から呆れ返った顔で溜息を落とした。
 『お前』ではなく、『お前たち』なところが極めて居た堪れない。旦那様がお嬢様すら引っくるめて言う時は、大抵本気で呆れて物も言えない時である。

「しかしですね、旦那様。実際に結果として優れた方法であると証明されております。ここ一週間のお嬢様は口元に微笑を湛えたながらたおやかにステップを踏む、という、椎折熊(カーモット)に国章の刺繍をさせるよりも難しいことを成し遂げていらっしゃるのです。つまりは」
「無い筈の返す言葉を出してくるな。仕舞え」
「はい」

 許されてもいない反論を勢いよく語り出した俺の口は、接続詞から先の言葉を紡ぐことなく、そのまま静かに閉じられた。気分としては大剣で正中線を掻っ捌かれたようなものである。
 唇を引き結び黙り込んだ俺に、旦那様が再度、大きく溜息を零す。眉間に刻まれた深い皺を、しばらく指の腹で揉み解した旦那様は、やがて全てを諦めたかのような視線を床へと向け、静かに目を閉じた。

「……それで? 勉強の方はどうなんだ。順調に進んでいるのか」
「ええ、まあ。合格という面でしたら心配ないかと。お嬢様の求める基準には達していないので、もう二ヶ月ほど猶予が欲しいところですが」
「そうか、ならば良い。期間は希望通りに与えてやる」

 受かるだけなら何とかはなる。一生に一度の勉学での正式な一騎打ち、とするのならまだ少し足りない。
 生半可な結果を出して失望されるのは御免だ。怠いし辛いししんどいし、結構投げ出したい気もするが、出来る限りは力を尽くす予定である。

 俺の言葉に特に何を思うでもなくあっさりと頷いた旦那様は、そこで気を取り直したように顔を上げた。

「ところで、今日呼び立てた理由についてまだ話していなかったな」
「いつもの定期報告会かと思っておりましたが、違うのですか」
「それならば書面で済ませる。娘の近況を聞く為だけにわざわざ専属執事を呼びつけたとでも思っていたのか」
「………………」

 正直ちょっと思っていた。何たって、旦那様は親馬鹿である。お嬢様が元気にやっているか聞きたくなったんだろうな、と普通に思っていた。
 目を逸らした俺に、旦那様が何か言いたげに眉根を寄せる。が、結局余計な時間を消費することになるだけだと察したのか、特に言及はないまま話は切り替わった。

「衣装の採寸だ。世界平和の象徴として人前に出る以上、生半可な格好では許されん。ようやく相応しい仕立て屋に予定を開けさせた、パーティには間に合わせるからさっさと測られてこい」

 旦那様はやや投げやりな仕草で立ち上がると、入ってきた扉とはちょうど対面に位置する扉のひとつを見やった。
 どうやら奥で採寸ができるらしい。成程、普段と違う店を集合場所に指定されていたのはこういう訳だったのか。

 確かに、パーティでパートナーを務める状況でまで普段の燕尾服でいるのは不恰好が過ぎるだろう。『聖女リーザローズ』のパートナーに相応しい装いが必要だ。それについて特に異論はない。だが、気になる点はある。

「旦那様、一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「どうした。言っておくが今更拒否は許されんぞ」
「いえ、この服飾代は給金から差っ引かれるのかが気になりまして」
「…………」

 もしも天引きされるのならそれ相応の覚悟が要る。
 なんと言っても、ロレリッタ公爵家御用達どころではなく、当主自ら、望みの品を得るために『予定を開けさせた』ような仕立て屋である。
 その上、期間は三週間後。どういう条件が交わされたのかは分からないが、最高級の技術というものにはそれなりの時間がかかる。その時間をすっ飛ばすには、当然金がかかる。場合によっては俺の一年分、いや、数年分の給金が飛びかねない。

 向こう数年無給労働はちょっと辛い。主に買い食いが出来ないあたりが辛い。無事に生き延びた以上、俺には王都のみならず大陸の美味いものを食べ尽くすという使命があるのだ。

 よって切実な声音と表情で尋ねた俺に、旦那様は無言で目を細めた。しばしの沈黙。次いで、何某かの感情を逃すように細く息が吐かれる。

「給金のことは気にするな。どうせすぐに心配は要らなくなる」

 それ以上の質問は許されない気配だった。まあ、旦那様が心配ないと言うのなら無いのだろう。
 腑に落ちないながらも、野良猫でも追い払うかのような手つきで退室を促す旦那様に従い、部屋を後にする。
 ……というか、引き立て役である俺にも最高峰の仕立て屋を用意する辺り、旦那様ってやっぱり親馬鹿だよな、なんて思いながら、俺は後ろ手に扉を閉めた。





 ────そうして、旦那様の計らいで衣装の準備も済み、お嬢様との一騎打ちという名のダンス練習に励むこと更に二週間。

 俺たちはついに、何方も近接格闘戦に持ち込むことなく、見事優雅に一曲踊り切ることに成功した。
 お嬢様は何処にもすっ飛んでいかなかったし、足捌きを間違えて中国拳法みたいになったりもしなかったし、何がどうなったのか分からん関節技を極めることもなかった。
 何処に出しても恥ずかしくない、貴族の嗜みとしてのダンスである。俺とお嬢様の間でこれが成立するとは、まさしく快挙だと言えた。

 余韻を残して踊り終えたお嬢様が、それまでの淑やかな表情から一点、普段の快活に輝く笑みへと変わる。
 喜びに見開かれた瞳が周囲の光を取り込み、喧しいほどに輝いていた。やたらと眩しい。光魔法でも拡散してんのか。

「────やったわ! これはかなり優雅だったと言えるのではくて!?」
「たった今優雅さの欠片も無くなりましたが、まあ及第点だとは言えるでしょうね」
「少なくとも、これでアンジェリカ様の期待は裏切らずに済むわ」
「ああ……随分と期待されていましたものね」

 アンジェリカ・バーノット侯爵令嬢は、今年度の卒業生首席代表であり、第一王子の正式な婚約者であり、知性と教養に溢れる淑女の鑑であり、『聖女リーザローズ』のファンである。幼い頃から厳格なバーノット家の教育を受け、完璧な淑女として過ごしてきたアンジェリカ様にとっては、自由を体現したような『リーザローズ・ロレリッタ』の生き様はひどく眩しく思える代物だったらしい。

 ……自由というより暴走だと思いますが、という言葉は飲み込んでおいた。そんなことはアンジェリカ嬢も知った上での憧れだからである。
 『自分は決してあのようには振る舞えないし、振る舞うこともしない』けれど、それでも世界に平和をもたらす『聖女』がお嬢様であることを、アンジェリカ嬢は心の底から喜んでいるようだった。

 かなり熱心なファンのようだが本人は忙しいので、大抵お嬢様と俺のシャンデュエにはアンジェリカ嬢が懇意にしている御令嬢方が観戦にやってきて、彼女へと報告しているらしい。
 何の需要なんだかさっぱり分からんが、忙殺されるアンジェリカ嬢にとって、お嬢様の存在は大分癒しとなっているようだった。
 お嬢様が癒しの存在。アロマキャンドルを求めてキャンプファイヤーをするくらいには無茶な割り振りだと思うが、嗜好は人それぞれなので一先ず納得しておいた。

 さて、そんなアンジェリカ嬢だが、無事に魔王を討ち倒し、世界に平和をもたらすまでは聖女リーザローズ様の邪魔をするわけにはいかない、とファンとしての自分をかなり抑え込んでいたらしい。
 それが今年魔王が討伐され、自分が無事に学園を卒業し、しかもそのパーティにはあの『聖女』が参加する────と聞いたアンジェリカ嬢は、普段の冷静さの一切を投げ、頬を紅潮させながらお嬢様へと期待に満ちた眼差しを向けた。

『聖女リーザローズ様も此の度のパーティには参加なされるのね。パートナーは、もちろん、カコリス様かしら? お二人のダンスをとても、とても楽しみにしておりますわ。ああ、わたくしが生きている間にそんな素敵なものを見られるだなんて、当日はバーノット家お抱えの画家を会場に呼ぶ予定ですの……彼女は記憶力に優れているから、きっと寸分違わぬ素晴らしい絵を残してくれる筈だわ……わたくしの部屋に飾っても構わないかしら? いえ、そもそも絵に残していいかを尋ねるべきね、いやだわ、わたくしったら、どうかお願いしますわ、お望みの対価ならどんなものでも差し出す覚悟があります』

 随分と熱心な信奉者のようである。常日頃から『わたくしはこの世で最も貴き、全ての民に愛されて然るべき存在』と自負してやまないお嬢様ですら、若干気圧されるほどの熱量であった。

 ところで、俺はこの熱量が何に由来するのか、何となく察している。アンジェリカ・バーノット侯爵令嬢の本棚には、甘く切ない恋愛を見事に描いた傑作少女小説がずらりと並んでいるそうだ。ルナ嬢がいつぞやそんなことを溢していた。
 つまり、彼女は自身に課せられた重責と厳しい教育を乗り越える糧として、愛おしい物語の世界を望んでいるのだ。それ自体はとても良いことだと思う。自分のやる気を自分で調整できるだなんて、本当に淑女の、いや、人間の鑑だ。

 つまるところ、彼女は『聖女リーザローズ』とその従者である俺こと『カコリス』に対しても、愛する物語に抱く期待と同じようなものを持ち合わせているのだ。

 これに気づいた時、俺は若干の、いや、かなりの冷や汗を掻いた。え? 周囲にはバレバレとかそういうことか?と思ったからである。俺がお嬢様のことを好きだと気づいたのはつい三ヶ月前のことだが、その三ヶ月の間で俺はすっかり態度でだだ漏れだったりすんのか?と。

 そうではない。アンジェリカ嬢は既に何年も俺たち二人を好きな小説と同じような甘酸っぱい関係であると期待して見ているし、『もしかしたら現実は違うかもしれない』ということまで理解した上で、楽しみの一つとして見守っているようだ。
 だから彼女は決して、俺たちの関係性を確認するような言葉は向けてこなかった。単純に不躾だというのもあるが、彼女はあくまで、輝かしいお転婆聖女のお嬢様と、それに付き従う捻くれた執事という自分の理想に胸をときめかせているのである。そこの線引きは、流石はアンジェリカ嬢と言ったところだった。

 それに気づいた時、俺は本当に、心の底から『聞かれなくてよかった』と思った。それは俺たちの実情がアンジェリカ嬢の期待とはかなり異なるから、というのもあるし、単純に、『お二人は想い合っていらっしゃるのですよね?』などと聞かれた日には、俺はまず間違いなく動揺を隠し切れないからである。
 『想い合って』はいないが、想いを向けてはいるのだ。俺はどうでも良いことなら幾らでも嘘をつける自信があるが、これまでに制御した経験のないこの謎の感情に対しての対処法はまだ身に付けてはいなかった。
 恋愛感情、マジで訳が分からねえ。俺の感情の癖に、俺の意思を無視して動く。厄介極まりなかった。

 それに、お嬢様には『好きな人』がいるのだ。俺との関係を勝手に推測されて、憤慨したお嬢様が否定した日には割と悲惨だ。いや、俺の心が、とかでなく、アンジェリカ嬢との関係においてって話で。次期王妃であるアンジェリカ様との関係を良好なものにしておくことは重要だと言える。

 今はまだ魔王討伐後のお祝いムードで全体的に好印象だが、それもこの先五年十年と平和が続いていく中でいくらでも揺らいでしまうだろう。英雄というのは、物事が解決すれば大抵は邪魔になるものだ。
 お嬢様の後ろ盾になってくれるような存在は大事にした方がいい。初めから向こうがこちらに好印象を持っているのなら扱いやすい、と捉えがちだが、実際のところ、好印象を持っている人間に失望した時の方が、反動は強いものだ。対応は慎重にするべきである。もちろん、理性的なアンジェリカ嬢に限って、私情で暴走するなんてことはないだろうが、それでも。

 そういう訳で、我々はアンジェリカ嬢を筆頭に、『聖女リーザローズ』に好意的な方々を満足させるだけの出来のダンスを披露するべく頑張っている訳である。悪感情を持っている類の人間に対して隙を見せるのはよろしくない、という面もあるが。
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