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第二十八話 前 〈2〉

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「お嬢様」
「何よ、ウスノロ」
「頼りにしていますよ」

 振り返らずとも声が届いているのは分かった。何故かリアクションとして脇腹の当たりを強めに握り込まれたので。
 なんでだ。痛いからやめてほしいんだが。新手の攻撃か? このタイミングで?

「まっ、ッ、任せなさい!」

 奇行はともかく、気合は充分に入れ直したらしい。瞬く間に伝播する光魔法の余波で周囲はキラッキラに輝き始めた。
 俺以外の者は不安と恐怖が軽減されているんだろうなあ、などと思いながら、周囲を取り巻く粒子を眺める。実際、グリフォンたちは随分と落ち着いた様子で飛行体勢を立て直していた。

 さてここで。
 ため息をひとつ。

「お嬢様、少々罵倒してもよろしいですか?」
「ふん、構わなくてよ、それがお前の仕事だものね」

 理解ある主人で大変に助かる。普段の軽い余波程度ならやる気に欠けた雑な罵倒でもそれなりになんとかなるのだが、流石にここまでの規模だと少し気合を入れねばならないのだ。
 全く、どういう仕組みか分からんが、限りなく面倒な仕様である。

「では最近ややリバウンドしつつあるお嬢様に忠告なのですが、幾ら料理長手製の品が美味であろうと飢えた獣のように食い散らかすのはやめた方がよろしいかと思いますよ。制服の釦が締まらなくなるたびに涙目になるのはお嬢様なのですから、その碌に働かない理性で節制に努めては如何ですか? 世界を救った高貴なる子豚聖女として名を馳せたいのなら別ですがね」

 今度は割と本気で腹部を殴られた。たとえ仕事であっても許せなかったらしい。特に許されるつもりはなかったので、とりあえず甘んじて二発目も受け入れておいた。







「────リっ、リーザローズ様! 此方です!」

 観測された目標地点に辿り着いた時には、住民の避難はかなり進んでいる様子だった。騎士団による誘導と保護、日々の意思づけが上手く働いたのと、比較的住居が少なく、避難しやすかった場所だったことが幸いしたのだろう。
 少なくとも、聖女パーティが全力で戦える場は整っているように見えた。

 呼びかけに応え、声のした方向へと駆け寄る。住民の避難のため、同時多発的に現れた予兆の相手をする騎士団員たちの中でひとり、比較的若い男がグリフォンに対しての合図である魔煙灯を揺らしていた。

 グリフォンを乗りつけ、手早く降りる。三羽が地を蹴り離れていくのを見送ってから、騎士へと向き直れば、彼は焦りをそのままに表したような足取りで此方に駆けてきた。
 精悍な顔立ちだが、血の気が全て失せたのかと言うような真っ白な顔色をしている。今にも倒れそうだったが、お嬢様の姿を見てとると、その顔に微かに安堵の笑みを浮かべた。

「付近には予兆の顕現はありません、我々は住民の避難、避難に、じ、尽力し、ほとんど、の者が、イラーべルを出ています」
「それは何よりね。騎士団の尽力に感謝致しますわ」
「勿体無いお言葉です、俺、いえ、わ、私の隊はこれより、残った住民がいないか確認を、かく、確認を、して、参ります」

 引き攣った喉から零れ落ちるのは、今にも叫び出しそうな自分を何とか律して、千切れそうな言葉を繋ぎ合わせただけの声だった。
 その瞳は落ち着きなく彷徨い、震える唇からは、幾度か噛み締めたせいで血が滲んでいる。浅く、碌に息を吸えていないのだろう呼吸が焦燥を含んで吐き出される。この分だと、近い内に酸欠を起こしかねない。

「大丈夫です、落ち着いてくださいませ。わたくし達が来たからには何も……──これは? 魔の者による負傷ですの?」

 震える騎士を落ち着かせようと声をかけていたお嬢様は、ふと彼の手に目をやると、そっとその手を拾い上げるように握り締めた。
 支えられた掌を見つめた騎士は、しばらく他人事のように自分の手を見つめたのち、はっと瞠目した。

「きっ、気にしないでください、これは、自分で、自分でつけたものです、すみません、すみません、自分は、弱い、弱いので、ああ、俺は、なんで、だ、誰一人、まともに、」
「いいえ、貴方は立派な方よ。きちんと仕事をこなされたのですから。さあ、この先は何一つ心配は要りませんわ、わたくしが来たのですもの!」

 騎士団員である男の右手には、無数の切り傷が付いていた。錯乱をそのまま表したような、めちゃくちゃな太刀筋の傷跡からは、彼の苦悩が窺えた。
 そりゃそうだ。誰だって、|あんなもの(・・・・・)に対峙したらそうなるだろう。気が狂いそうなほどの恐怖に立ち向かうために、彼には正気を保てるだけの痛みが必要だったのだ。

「治療なら手早く済ませてください。愚鈍なお嬢様に付き合っている暇はありませんので」
「ふん、言うじゃないウスノロ! こんなもの、十秒もあれば治してみせますわ!」
「遅いですね、五秒で済ませてください。薄鈍はお嬢様の方では?」

 仕事である。以上。
 アザンが今にも此方を殺しそうな勢いで見ているが、何も言うまい。
 今しがた治療を受けたばかりの騎士団員にも凄まじい顔で見られているが、何も言うまい。

「もしまた恐怖を覚えた時にはわたくしを思い出してくださいな。この素晴らしく尊い聖女たるわたくしが、いつでも貴方の心の側に付いておりますわ!」
「せ、聖女様……!」

 光魔法により本当に後光が差しているお嬢様を眩しそうに見つめた騎士団員は、感謝と安堵の涙を浮かべながらお嬢様の手を握り返し、意を決したように走り出した。ついでに俺には盛大な舌打ちが向けられた。元気になったようで何よりである。

「さて、我々はあれに立ち向かわねばならない訳ですが。今一度役割を確認しておきましょうか」
「何故お前が仕切っているんだ! さっさと下がれこの役立たず!」
「言われなくとももうすぐ下がります。私に出来ることは後方から支援しつつ野次を飛ばすことくらいですからね」
「この状況でも野次を飛ばすつもりだと!? こ、この、不敬の権化が!!」

 悲しい話だが、不敬の権化であることが俺の存在理由である。ぎゃんぎゃんと騒ぐアザンを軽く押し退け距離を取らせつつ、『魔の王』へと向き直る。
 視界に入れることすら悍ましい、人間への害意だけで形を成した異形の化け物。形だけが妙に人をなぞろうとしているのが、殊更に不気味だった。
 再構築される身体の端々が、無人の家屋をいとも容易く薙ぎ倒していく。

 その破壊の中心へと足を進めながら、アーサーが口を開いた。

「……前衛は俺とカルフェが努める。物理的戦力を減らすのが目的だ。死角からの攻撃や中距離、広範囲の足止めにリィラル。アザンは全体に強化魔法と、出来ればアレに対して減退魔法を頼む」
「承知した」
「出来ないとお思いですか? 見くびられたようですね!」
「…………力は尽くしますヨ」

 リーダーであるアーサーが仕切れば、アザンは充分に気合の入った答えを返した。マントを翻し、魔力回復効果のある魔法薬の詰まった瓶の数々を誇らしげに見せる。一本で小型の船が買える程度には高級な代物だ。
 一応、国家予算の中から必要分は支給されているのだが、アザンは私財を注ぎ込んでそれ以上の物を用意したようだった。

「|お嬢(・・)はとりあえず負傷の回復と、手足を十分削り切れたら、止めを頼む。完全に滅さなければ、生きた身体の一部に逃げられる恐れがあるからな」
「承知致しましたわ! 頼りにしておりますわよ、リーダー!」
「ああ、任せてくれ」

 聖女パーティという名である以上、最初はお嬢様が仕切っていたのだが、いつしかリーダーに相応しいのはアーサーだろう、という空気から彼が意見を纏める存在となっていた。
 ついでにいうとお嬢様は名誉顧問聖女である。何か顧問らしきことをしているところは一切見たことがないが、それでも一応、名誉顧問であった。

「カコリス、お前の状況判断能力は信頼している。危ないと思ったらいつでも指摘してくれ」
「勿論、出来る限りの手伝いは致します」

 分かり切っている作戦事項をわざわざ確認しているのは、何か話していなければ張り詰めた空気に押しつぶされてしまいそうだからだ。平静を装わなければ、今すぐ正気が何処かに逃げ出しそうだった。

 正直に言おう。ずっと吐きそうである。そりゃそうだ。俺には光魔法の恩恵がない。恐怖は恐怖のまま、嫌悪は嫌悪のまま、呼び起こされる本能的な忌避感が胸を締め上げてくる。胃が痛い。マジかよ。

 イラーベルの住民たちも、きっと全く同じ恐怖を味わったのだろう。そしてあの場にいた騎士も。それでいて避難を完遂したのだ。並大抵の精神力ではない。
 全く、尊敬に値する人間ばかりだ。皆が皆、生きようと必死にもがいている。欲望のままに食を求め不摂生で死んだ男には眩しすぎるぜ。

「では、私はこの辺りで距離を取っておきます。後方支援はお任せください」

 自嘲にも似た笑みを浮かべながら立ち止まった俺を、お嬢様が振り返る。

「約束は覚えているかしら?」
「擦り傷ひとつ負うつもりはありませんよ」

 何せ、この戦いが終わったらお嬢様に半分明け渡し、依存性の効果を打ち消さなければならない命だ。むざむざ捨てる訳にはいかない。
 努めて澄ました顔を作って答えれば、お嬢様は満足したように頷き、魔の王へと向き直った。

 一呼吸。気合を入れたのが、その背からでも見て取れる。

 アーサーとカルフェが散開し、左右から回り込むように巨躯へと駆ける。
 リィラルが伸ばされた触腕じみた黒い腕に凍結魔法を放つのと、アザンの強化と減退の魔法が発動するのはほぼ同時だった。

「────……!」

 人の形こそ成しているが、魔の王の体からは無数の触腕が伸びている。現在、視認できるだけで七つ。その内の二つがリィラルの凍結魔法により硬化し、アーサーとカルフェ、二人の騎士によって切り落とされた。切り離されて尚蠢くそれを、お嬢様の光魔法が焼き尽くすように滅する。

 ようやく形を成した魔王の口から、咆哮が響く。耳を劈き、精神に干渉する、負の感情を詰め込んだ叫びだ。
 前衛二人の足がやや詰まる。反射的にか、お嬢様が広範囲に対し光魔法を行使した。

 上空から狙いを定めるように先端を鋭く尖らせていた触腕が、今しがたアーサーとカルフェが飛び退けた場所へと突き刺さる。地面を抉り、周囲に土埃と石塊を飛ばした一撃は、人体にあたれば容易く四肢の一つは抉るだろう。

「五秒で終わらせると言っておりましたが、既に三十秒が経っておりますよ。大きくなったのは口だけのようですね」

 久々に持ってきた新聞紙を丸めたメガホンを口に当てつつ野次を飛ばす。アザンからはシンプルに『失せろゴミ』というジェスチャーが送られた。すまんな、まだ失せる訳にはいかないんだ。

 恐怖で動きを鈍らせ、強力な一撃で仕留める。意思はなくとも攻撃手段が確立されている。ただ生きる者を屠るためだけの動きだ。
 真っ先にお嬢様を狙わないあたり、攻撃してくる近くの対象から反撃に出る性質は変わらないのだろう。この辺りは、一応歴史に残る記録と同じだと言えた。

 定期的にそれとなく野次を飛ばしつつ、触腕の打撃で破壊された建物の破片による二次被害を土魔法の由来の蔦で防ぐ。
 出来れば家屋の少ない港側に誘導したいのが本音だったが、そう容易く思い通りになる相手ではないことはパーティ全員が理解している。

 緊張と焦燥を抱えたまま、俺たちは咆哮する魔の王へと意識を集中させた。


 
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