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第二十五話 〈3〉

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「たとえ女神がどのような存在であろうと、この世界がどんな意味を持って存在していようと、この国で生きる全ての者はそれぞれ己で意味を見つけて人生を歩んでいる。それだけは間違いがない。私の方こそ、共に生きる民をまるで決められた人生で動く人形のように感じていたのかもしれないな……彼らは自分の意志で生きていると言うのに……」
「ええ、たとえ魔王を倒す為に作られた世界だとしても、全ての方が全力で生きておりますわ。貴族だけではなく、市井の方々も……そうです、陛下は下町の串焼きを食べたことはありまして? とても美味しいんですの、様々な店が競合することで日々新たな美食が生まれておりますのよ! 彼らの研鑽には生きる強さと煌めきがあり、まさしく人間の意志というものを強く感じますわ! 陛下にも味わって頂きたいですわね、是非とも共に参りましょう!」
「ふむ、串焼きとな。……成る程、良いかもしれぬ」

 苦笑を滲ませつつ頷く陛下に、お嬢様は尚も『近頃見つけたおすすめ店』の話を続けようとする。
 顔を抑えた旦那様が椅子の背に身体を預けて溜息を吐いていたが、とりあえず見ないふりをしておいた。
 何もよくないが……?という呟きも聞こえないふりをしておいた。

「陛下、先に申し上げておきますが、お嬢様と食べ歩きをするならば己の分は己で確保せねばなりません。略奪者(ガルガドス)の異名を持つ聖女様であらせられますから、油断すると一瞬で此方の手元から消失致しますよ」
「わたくしが陛下の串焼きを奪う筈がないでしょうっ!? 無礼が服を着て歩いているお前と一緒にしないでくださる!?」
「お嬢様は六十二日前、私が手に入れた新商品の緑宝鳥アルチュアの香味焼きを一口だけ、と言って全て奪っていかれた訳ですが。これを略奪と言わずして何と言うのか、お聞かせ願いたいものですね」
「日付まで覚えているなんて、なんて陰湿な男……! お前はわたくしの下僕なのだからその程度は許容するのが当然ではなくて!?」
「愚か者のお嬢様はご存じないかもしれませんが、食べ物の恨みとは恐ろしいのですよ。私は未だに、自身の持つ串から艶やかに焼かれた肉が奪われたあの一瞬を夢に見ます。折角ご主人が特別に仕入れてくださった貴重な肉だというのに、全くなんてことを……全く、なんてことを……」

 思い出したら再度悲しみと切なさと恨みが蘇ってきたので、俺はそれ以上考えるのをやめた。取り返せないものについて考えるのは精神衛生によくないのである。
 緑宝鳥アルチュアの群れは三年に一度大陸の東の海に現れるとされている。次に俺があの艶めく美しい串焼きに出会えるのは少なくとも三年後である。つまりは魔王をぶっ倒した後だ。何が何でも生きねばならぬ、という気になるので食い意地というのは素晴らしい。

「私は三年後、この卑しい聖女様から緑宝鳥アルチュアの串焼きを死守して己のみで楽しむ予定です。陛下もその際には是非、共に楽しみましょう。食というのは素晴らしいですよ、それだけで生きる価値があります」
「……うむ、御主にとっては、まあ、そうであろうな」

 前世の俺の死因を知っている陛下からは、なんとも形容し難い笑みが返ってきた。食べ過ぎの不摂生で死んだなど、悪徳貴族のような振る舞いであるからして、自制の利く陛下からすれば苦笑してしまうのは致し方あるまい。
 自分が食い意地の張った人間である自覚はあるので、極めて真面目な顔で苦笑を受け止めておく。陛下はまるで手のかかる子供を見るような目で俺とお嬢様を眺めた後、幾分柔らかいだ表情でそっと口にした。

「確かに、生命を維持する行為そのものに楽しみを見出すのは良いかもしれぬ。ここ数年、私の食生活のせいで料理長には食事を用意する楽しみを与えられなかっただろうしな……カコリス、御主の食した料理でこれはと思うものがあれば教えてくれぬか」

 なんとも有難い言葉を頂戴してしまった。陛下の言葉に、ここ二十年の記憶をフルに働かせる。国王陛下にとって目新しいものがあればいいのだが。
 幾つか思いついたものを挙げてから、後日リストアップしたものを旦那様経由で送る約束をした。国王陛下の口に入るものであるからして、一旦は旦那様預かりになる訳だ。

 打って変わって空気の軽くなった室内で、陛下は柔らかくも場を引き締めるような声音で告げる。

「『女神ラピス・ルーゲンスティア』への信仰を集める件は、早急に手を回そう。魔王顕現については聖女パーティの面々にも伝えておく、各地の準備も殆ど完了しているから、あとは御主たちの活躍と、顕現の場所次第といったところだろうな。少なくとも、私が知る限りでは最も規模の大きなものになるはずだ。元より覚悟は決まっているだろうが、改めて気を引き締めて貰いたい」
「承知致しました。来る日に向け、更なる鍛錬を積んでおきますわ」

 一礼した我々に頷きを返した陛下が、隠し扉を通って部屋を後にする。魔法によって閉ざされた扉を見送った後、旦那様がゆっくりと、肩に乗った疲弊を振り払うようにして席を立った。椅子を戻し、立ったまま卓上に両手をつき、俺とお嬢様を見下ろして口を開く。

「お前たち、一つだけ言っておくぞ」

 『お前』ではなく、『お前たち』である時点で、俺とお嬢様は揃って目を逸らしてしまった。が、すぐに戻した。

「次に陛下にあんな物言いをしてみろ、揃って騎士団の演習場を百周させてやるからな」

 ……逸らし続けたら更に怒られることがわかっていたからである。

 地を這うような声音で言い放った旦那様は、極めて神妙な顔で深く頷いた俺とお嬢様を見ると、深く息を吐き、それ以上の返事を待つことなく資料室の外へと出た。
 怒りを抱えて尚、至って規則正しい足音を追うようにして立ち上がる。同じく立ち上がったお嬢様が、扉を抜けた直後に小さな声で囁いてきた。

「お前のせいでお父様に怒られてしまったじゃない……!」
「私のせいですか? 大体はお嬢様のせいだったかと思いますが」
「わたくしの何処が悪かったと言うのよ」
「女神どころかこの国全てを己の下に置く発言、まさに不敬の極みでございましたね」
「事実を言ったまでだわ。それに、お前から聞いた話だと、前の女神様にわたくしが敬意を払う必要なんて無いのではなくて?」
「その点に関しては概ね同意します。が、陛下に対しても上から目線とは、歴史ある公爵家の令嬢とは思えぬ振る舞いでは?」
「わたくしはこの世界で最も尊く偉い存在なのだから、立場など些細なことよ!」
「はあ、いやはや全く、呆れ果てるほどの自尊心でいらっしゃいますね。もはや羨ましいほどです」

 足音にすら掻き消されそうな声量で話しているため、ひどく距離が近く歩きづらい。足が絡まりそうな位置だが上手く捌けているのは、普段からシャンデュエでぎりぎりの距離をやり合っているからだろう。こんなところでも役に立ったりするもんなんだな。

「いいから、お前が謝罪してきなさいよ」
「私の詫びは紙のように軽く捉えられるのでまだ愛娘のお嬢様が言った方がよろしいかと」
「嫌よ! お仕事の時の顔をしていたもの!」

 旦那様は親馬鹿だが、それでも何もかもを許してくれたりなどはしない。お嬢様もそれは分かっているのか、腕を引っ掴む勢いで身を寄せてくると、いつになく鬼気迫った顔で「お前が詫びてきなさい……!」と詰め寄ってきた。
 そんなに嫌ですか。まあ、普段滅多に怒られないから余計にダメージがあるんだろうが。

 俺だって別に喜んで怒られている訳ではないのだが、仕えるべき主君に対する態度でなかったのは確かなので、仕方ないな、と腹を括った。

 揉め合っている内に王城を出てしまっている。馬小屋へと向かう旦那様の後ろを追い、その背に声をかけようとした──その時、旦那様が踵を返した。

 ぎくりとした調子でお嬢様が足を止め、ついで腕を掴まれていた俺が引っ張られるように止まる。旦那様の目は一瞬俺の腕のあたりに視線をやったように見えたが、すぐに此方へと歩み寄ると、緊張した面持ちのお嬢様を優しい眼差しで見下ろした。

「リザ、お前はいつも私には出来ないことをやってのける。どうしようもないお転婆で手に負えない部分も多々あるが、その点に関して私は本当にお前を尊敬しているよ」
「……お父様」
「だからせめて、もう少し淑女として落ち着きのある振る舞いを身につけなさい」
「…………申し訳ありません。以後気をつけますわ」

 眉を下げ、素直に頷いてみせたお嬢様に、旦那様もゆっくりと頷きを返す。そこに在ったのは娘の成長を喜ぶ父の顔だった。安堵したのか、俺の腕を掴んでいたお嬢様の手から力が抜ける。
 次いで、お嬢様の隣に立つ俺へと目を向けた旦那様は吐き捨てるようにして口早に言い放った。

「それとカコリス、お前は魔王討伐後に魔法学園の卒業証明試験を受けろ」
「は。…………はい?」
「つべこべ言わずに受けろ。いいな」

 苦虫を噛み潰したような顔で言い捨てていった旦那様は、俺の返事を聞くこともなく自分の馬を選ぶと、お嬢様にだけ声をかけて去っていった。隣の俺はガン無視であった。

「……また急な話ですね。必要があるとは思えませんが……」
「確かに不思議だけれど、お父様のことだから、何かお考えがあるのかもしれないわ」

 学園の卒業証明試験。俺にはとんと縁のないものである筈なのだが、旦那様が言うのならば受けない訳にはいかなかった。雇い主には素直に従っておくべきである。魔王討伐後も世界が続くのならば尚更だ。

 勉強か。魔法を覚えたての頃は割と熱心に(お嬢様を捕まえる術を身につけるため)学んでいたのだが、一通り技術として確立してからは理論の学習は疎かになっていた面がある。
 せめて五学年の魔法基礎からはやり直さないと不味いかもしれない。

 乗ってきた馬を出しつつ、頭の片隅で必要な魔導書のリストアップを行う。あれとあれは学園内の図書室にもあったな、などと思っていると、俺が用意を整えるのを待っていたお嬢様がハッとしたように顔を上げた。

「待ちなさい、ヒデヒサ! 卒業証明試験となると、わたくしの卒業試験成績との比較が出来ますわね!?」
「は? ああ、そうですね。筆記と実技共に内容は異なると聞いていますから厳密な比較ではありませんが……まあ、大まかには比べることはできるかと」
「では! わたくしの卒業試験の結果と、お前の卒業証明試験の結果を比べることで、学問の面でも勝敗を決することが可能ですわね!!」

 夜空の下でも分かりやすく目を輝かせる──というか本当にほんのり光っている──お嬢様は、腕を組んだまま満足げに肩を竦めると、意気揚々とした足取りで俺が手綱を握る馬へと近づいてきた。

「流石はお父様ですわ! わたくしに主人としての威厳を見せつける機会を与えて下さるなんて……! ふふっ、見ていなさい! 必ずや首席で卒業し、完膚無きまでにお前を叩きのめしてみせますわ! 首を洗って待っていなさい!」

 声高に宣言したお嬢様は、軽やかな身のこなしで馬へと跨ると、馬上から俺を見下ろして機嫌よく鼻を鳴らした。
 相変わらず、勝負事となると凄まじく生き生きし始めるお嬢様である。多分どう頑張っても旦那様の望むような淑女にはなれないような気がしたが、まあ、そんなのは今更である。

 お嬢様が勝負がしたい、と言うのならば、俺に出来ることは望みに応えることだけだ。

 何か大事なことを忘れているような気もしたが、ご機嫌に馬をかっ飛ばそうとするお嬢様の後ろから手綱を握っている間に忘れたことすら思考の片隅に溶けて消えていった。


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