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第二十四話 〈2〉

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     ◆   ◇   ◆



「────リュナン、平気か? 顔色が悪いぞ。あまり体調が酷いようなら日を改めさせるが……どうする?」

 王城の第三資料室にて。俯くリュナンの調子を横目で伺っていたルーヴァンは、主君のあまりの顔色の悪さに、とうとう見かねたように声をかけた。

 カコリスが倒れてから一週間、日に日に顔色を悪くしていくばかりだったリュナンだが、目を覚ましたとの報告を聞いてからは幾分落ち着いたように見えた。それが此処に来て再び目に見えて悪化している。
 リュナンが何か計り知れないものに対して怯えを抱いていることは、ルーヴァンも長い付き合いで感じていた。だが、生来隠し事の得意な男だ。此処まで動揺を露わにしているところは今までにも見たことがない。

 光魔法の抑止力となる男は目を覚ましたし、体調面でも問題はないと報告を受けている。ならば会合を急ぐこともあるまい、と判断したルーヴァンのかけた言葉に、リュナンは常よりも覇気のないものの芯のある声で答えた。

「……いや、問題ない。私からの用件だけなら構わないが、カコリスからも話したいことがあると言われているからな。彼の話は聞いておきたい」

 緩く頭を振ったリュナンは、手元の水を一口飲み下すと、微かに響く程度の溜息を落とした。
 吐息の音を最後に、埃っぽい室内に沈黙が落ちる。
 何処か常とは違う緊張感を孕んだその空気を、ルーヴァンの呟きがやんわりと裂いた。

「…………やはり俺の娘は心配か? まあ、根がああだから不安にはなるだろうが」

 昔からの付き合いを感じさせる気易さで話しかけたのは、その方がリュナンも気軽に心中を吐露しやすいだろう、と判断したからだ。腕を組み、壁際に寄りかかるルーヴァンは、額を押さえて俯くリュナンに対し、あくまでも軽い調子で言った。

 優秀な娘ではあるが、精神面ではまだまだ未熟な部分が多いのも確かだ。幼い頃からとことん甘やかしてしまったせいで、十六も近いのに何処か根が幼稚だとも言える。……いや、それはあの執事を相手にしている時だけかもしれないが。
 苦笑いを唇の端に浮かべつつ、冗談めいた気軽さは残したままリュナンに語りかける。

「それに、あの男は極度の鈍感だが、愚鈍ではない。今回倒れたのも、単なる不摂生や気の緩みではないだろうさ。研究所員の報告も受けているんだろう? 恐らくは、必要があって別の厄介ごとに首を突っ込んだんだ。
 ……まあ、それはそれで不安の種ではあるかもしれないが、少なくともあいつは王都の五ツ星店を食い尽くさない内に死ぬような男ではないからな。そこまで心配する必要はないんじゃないか」
「……大丈夫だ、ルヴァ。私も、あの二人については特に心配しておらぬ」
「…………じゃあ、何がそんなに心配なんだ? |北の大国(フェールメルズ)か?」
「いいや、違う」

 ならば何を、と口にしかけたルーヴァンに、リュナンは何処か自嘲めいた笑みを浮かべ、緩慢な仕草で視線を向けた。その目に浮かぶのは疲労と忌避、そして紛れもない恐怖だった。

「分からぬのだ。自分が何故これほどまでに恐れているのか、一体……何を恐れているのかさえ、分からぬ」
「…………原因に心当たりがない、と?」
「そうだ。しかし原因は思い当たらずとも、恐怖ばかりが止め処なく溢れてくる。押さえつけるだけでも苦労するほどに。……私は一体、何に怯えているのだろうな」

 歪んだ唇から掠れた声を溢したリュナンは、それきり言葉を続けることなく、テーブルへと視線を戻した。細かい傷のついた古い円卓をただじっと見つめているリュナンの横顔には、彼の言う通り抑えきれないのだろう恐怖が冷汗と共に薄く滲んでいた。

 彼がこのような顔を晒すのは自身の妻と、自分を相手にした時だけであるとルーヴァンは知っている。

 リュナンは他の臣下の前ではその胸の内に潜むものの全てを抑え込み、いつ何時も穏やかに、柔らかい笑みを浮かべてみせるのだ。
 その笑みが民や臣下に安心を与えるものであると同時に、彼らと一定の距離を取ろうとするものでもあることには、ルーヴァンはもうずっと前に気づいている。

 ルーヴァンが気づくほどなのだから、恐らく王妃であるフレアはもっと深く知り得ているのだろう。フレアとは互いに暗黙の了解として触れないようにはしている為に明確には把握していないが、彼女が婚約を結んだ当初から人一倍リュナンを気にかけていることは、側で見ているだけでも痛いほどに伝わってくる。

 リュナンがフレアに弱みを見せるのは彼女の長年の献身と愛故だが、ルーヴァンに対してもそれを見せても良いと思っているのは、恐らくは幼少期の脱走が関係している。

 リュナンは昔から何処か達観した子供であり、同時に常に瞳の奥に悲観を滲ませる子供でもあった。
 将来王となることが決まっている彼の背負う重圧は、ルーヴァンには推し量れない程のものがあっただろう。五つ下の少年が抱えるには重すぎる心の負担を少しでも和らげてやりたい、とルーヴァンは度々リュナンを連れ出し、王城裏の森での狩りや散策に誘っていた。
 ……ちなみにこの辺りの脱走癖はしっかり娘に受け継がれている気がするが、ルーヴァンは極力自覚しないように努めている。

 ともかく、リュナンが少しでも日々を楽しく思ってくれればいい、と思い、ルーヴァンは時折脱走の手助けをしていた。初めは何処か無気力な様子で、それでも断ることはせずについてきていたリュナンだったが、ある時、彼自ら脱走を願ったことがある。

 行き先を尋ねるルーヴァンに対し、リュナンは僅かに震えた声で、しかしはっきりと『世界樹に登りに行きたい』と口にした。

 世界樹とは、王都の外れに位置する、『女神』の住む天界へ繋がると言い伝えられている巨木だ。
 管理用に足場が組まれているので登ることは充分に可能だが、王族をそんなところに連れていくなど、普段は目溢ししてくれている者たちも決して許してはくれないだろう。下手したらルーヴァンは一生騎士になる権利を剥奪されるかもしれない。

 だが、それでも迷わず『城を抜け出そう』と言ったのは、リュナンが何か、助けを求めるような顔をしていたからだった。
 隠そうとしても隠しきれない、何処か縋るような、それでいて逃げ出したいと怯えているような視線。
 彼は恐らく歳も近く親しいルーヴァンを信頼して、やっとの思いでその願いを口にしたのだ。普段大人たちの前では快活に振る舞ってみせるリュナンのそんな態度を見て、我が身可愛さに断るほど、ルーヴァンは男を捨ててはいなかった。

 世界樹を登り切った時、雲がとても近かったことと、夏だというのに肌寒かったことをよく覚えている。それと、戻った後に思い出したくもないほど叱られたことも。『私が無理に頼んだんだ』と床に両手をついて謝るリュナンのおかげでなんとか許して貰えたが、下手したら本当に勘当されていたかもしれない。

 そして、あともう一つ、ルーヴァンの頭にはどうしても忘れられない記憶が焼き付いている。これはリュナンでさえ知らないことだが、世界樹の上、人の足で辿り着ける最も高い場所で、リュナンは確かに言ったのだ。

 このまま死んでしまいたいな、と。

 風に紛れて聞こえないと思ったのだろう。もしくは、呟くつもりなどなかったのかもしれない。
 皆に好かれる快活さを持ち、それでいて聡明で思慮深い、まさに民を統べる王となるべき資質を備えた彼がどうしてそんなにも悲観的になるのか、その時のルーヴァンには分からなかった。
 分からないが、彼の抱える心の傷が、容易く触れていいようなものではないことだけは察した。

 だからこそ今日まで触れることなく、ただ忠実な臣下として、そして時には気兼ねない友人として振る舞ってきたのだ。

 テーブルを見つめたまま俯くリュナンの顔には、あの時、世界樹の上で見せた時と同じものが浮かんでいるようにも思える。飲み込まれてしまうほどの悲観と、拭い切れない恐怖。

 一体何に怯えているのか。ルーヴァンはその怯えの原因について、数年前に仮説を立てたことがある。

 もしかしたらリュナンは『未来が見える』のかもしれない、と。
 それ故に、いずれ生まれてくるルーヴァンの娘が類まれな光魔法を宿していることも、性格がやや……いやかなり……結構、厄介なことになってしまうこともずっと前に察していて、そんな『聖女』が『魔王』を倒し切れずに訪れてしまう破滅的な未来について憂いているのではないかと。

 この仮説について、成り立たない点が幾つかあることは認識している。だが、いくつかは当たっているのではないか、と感じてしまうのも確かだった。
 リュナンの先見の明は、時折周囲の人間にとっては恐れを抱くほどに鋭く冴え渡ることがあった。それこそ未来を見通す力でも持っているのかと言われるほどに。
 本人はそれを聞くたびに苦笑と共に『私に使えるのはしがない水魔法くらいのものだ』などと溢していたが、全くの的外れでもなかったのではないだろうか。

 少なくともリュナンは、『異世界より現れた特異な魂を持つ者』などという超然とした得体の知れない存在をあっさりと受け入れている。

 ルーヴァンは最初、そんなことが有り得るものか、と真っ向から存在を否定した。当然だろう。この世界で『異界より姿を顕す者』など、歴史上『魔王』しか観測されていない。そうなるとあの男は魔族であるということになるが、それにしては目的があまりにも読めなさすぎるし行動があまりにもアホすぎる。
 あのアホのちゃらんぽらんが『異世界人』だと? 断じてありえん、と言い切ったルーヴァンがカコリスに確認を取り、分かりやすく肯定の反応が返ってきたのは二年前のことだ。

 肯定され、一度は受け入れたルーヴァンだったが、それでも未だにあの男が『異世界人』であるなどとは飲み込み難いものがあった。まだ『特異体質を持つ自分を異世界人だと思い込んでいる精神異常者』の方がしっくり来る。

 だが、リュナンは確認が取れた後にはすんなりとそれを受け入れていた。そして、娘の親友が負傷した一件の際には、カコリスにのみ何かを語り聞かせるほどには信頼している様子すら見せた。『貧民街出身の得体の知れない男』を、一国の王が信頼することの危うさと迂闊さを知らぬほど、リュナンは愚かな男ではない。

 特殊な能力を持つ者をあっさりと信頼するのは、リュナン自身がそうだからではないだろうか?
 ルーヴァンの胸の内にはそのような憶測が在る。だからといって忠義心が揺らぐ訳でも、無理に暴こうと言うつもりも無い。
 リュナンが何を恐れようと迷いなく剣を抜き、命を賭ける覚悟もある。その思いだけは、たとえ何が敵であろうと変わることはなかった。

「……やはり日を改めた方がいいのではないか? 彼奴が倒れてから一週間、ナナヴァラの方でも動きがあっただろう。疲れが抜けていないんじゃないか」
「何、さして問題はない。どちらの国も『魔王』を討ち倒すその時までは派手には動けん。我が国が傾けば魔の王への手立てを失い、自らの国すら滅びかねんからな……ガルガ王のいつもの悪癖に過ぎんよ」
「…………全く、厄介な国と地続きだな。まだ山でも挟めばやりやすいが……いや、それもまた国を統べる王次第か」

 秘密主義にして享楽主義、狂気的な研究者を王として掲げる|北の大国(フェールメルズ)を思って溜息を落としたルーヴァンに、リュナンは小さく苦笑を零した。敵に回ったとしても長年付き合いがある分、何かしろ思うところがあるのだろう。
 気を取り直したように顔を上げたリュナンが、ルーヴァンへと目を向ける。

「今は何よりも『魔王』への対応を考えねばならん、研究所の〝予測〟の件も伝えねばな……。ルヴァ、そろそろあの二人も着く頃だろう、迎えに行ってくれないか」

 そこに浮かんでいた恐怖の色は、すっかり為政者の仮面の下に押し隠されてしまっていた。しかし道を知っているだろうカコリスをわざわざ迎えに行かせるあたり、僅かでも一人になる時間が欲しいのだろう。王としての顔で示されてしまえば、友人ではなく、ただの臣下として振る舞う他ない。
 それ以上言及することなく礼を取ったルーヴァンは一人第三研究室を出ると、『あの二人』を迎えるために足を進めた。


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