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虚ろな影は少女と共に

13話 倉實礼は……

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 廊下から見た今日の空は、綿あめをちぎったような雲がちりばめられていて、その足取りはゆっくり、ぼんやりと……なんとなく眠気を誘ってくるような空に見えた。そんな昼下がり。
 先日、諸々の件を済ませて部屋に戻ると、時計の針は既にてっぺんを上っていた。ベッドに体を滑り込ませると、私の中に潜んでいた眠気は機は熟したと言わんばかりに一斉に襲い掛かってきた。
 (……今から寝たら私、確実に今日はもう起きないわよね)
 目覚めの悪さは私が一番よく知っている。そもそも目覚めないこともあるけど。
 ……まあ、一日くらい眠らなくてもどうということはないでしょう。
 あの時の私は確実に睡眠の重要性を理解していなかったようで、朝には冷たくなった私を貴澄さんが発見してくれたらしい。その時の記憶は曖昧だけれど、潮凪先輩の楽しげな表情ははっきりと覚えていた。
 午後になって体調が良くなったら授業に出るとは言ったものの、その後しっかりと寝てしまったようで午後一番の授業は出られなかった。
 それでも、アレまでには間に合いそうで何よりね……
 もう徹夜はしない。そう強く心に刻み込んだある日の昼下がりだった。
 教室の前まで来ると、ドア越しからでも聞こえてくるクラスメイトの声に、掛けた左手はいつもより力が入らなかった。意を決して扉を開けると、中から這い寄る生ぬるい空気とほんの少しの沈黙が私を取り囲んだ。
 あ、倉實さんだ。誰が発したかわからない言葉が私へと視線を釘づける。
 この生ぬるくも鋭く胸に突き刺さってくるような空気は前も感じたことがある。

「倉實ちゃん! 体調崩しちゃったって聞いていたから心配したよ…… もう大丈夫なの?」

 聞き覚えのある声が耳へと届けられた。声の主は立ち話をしている子達に隠れてしまって見えないけれど、かえってその様が私を落ち着かせてくれた。
 (あれだけ元気で、他の子に隠れてしまうくらい小さい子なんて、あの子しかいないわよね)

「う、うん。もう大丈夫。心配させてしまってごめんなさい」

 多蔦さんのおかげで、溜まった嫌悪感はすんなりと吐き出せた。
 私が返事をすると、一瞬静けさに支配されていた教室は、またいつものように会話に花を咲かせはじめた。

「倉實さん」

 先程の明るく弾んだ声とは違い、凛として透き通るような声が届けられた。
 声の主はその短い髪を精いっぱい揺らしながら駆けてくる。

「大丈夫? 無理してない? 本当は一日ついてあげられればよかったのだけれど……」

 ……私ってそんなにか弱そうに見えてるの?
 口には出さなかったけれど、貴澄さんの面倒見があまりにも良すぎるのか、それとも私がこれ以上にないくらいか弱そうに見えるのかは一考の余地があるのかもしれない。
 看病してくれる。というのは確かにありがたい提案だったけれど、これ以上貴澄さんに頼るわけにはいかない。
 現に、彼女の表情はいつぞやに見た、触れてしまえば壊れてしまいそうなくらいに脆く、痛々しいものだった。私が変に体調を崩したせいで、彼女のやさしさが彼女をより深く傷つけてしまっているように見える。
 後で貴澄さんにはしっかりと謝っておこう。 
 貴澄さんには、笑っていてほしい。
 その為に、今日で終わらせる。
 この教室中に蔓延する「呪い」を取り除くには私達だけではなく、クラスメイト全員に納得してもらう必要がある。タイミングとしては、今日がベスト。
 意を決して教卓へと進もうとする私をよそにして、突如として無機質に四つの鐘の音が教室中に響いた。小さく息を整える音に、クラスメイト全員が耳を澄ませた。
 ……タイミング悪いなぁ。

「全校生徒にお知らせします。2年生、3年生は3時30分より行われる部活動紹介の準備に取り掛かってください。1年生は準備が終わるまで引き続き待機でお願いします」
「楽しみねぇ」「もう何部に入るか決めた?」「私は園芸部かしらね。でも、他の部活動も楽しそうだわ!」

 無機質な四つの鐘の音が鳴り終わると同時に、話題は部活動一色に染め上げられた。
 部活動紹介。
 年に1回、新入生が学院生活に慣れてきた頃に開催される行事。新入部員獲得のほぼ唯一といっても過言ではないチャンスに先輩方はかなり気合が入っているらしい。授業を1時間分潰してまで準備が行われるということは、相当手の込んだものなのだろう。
 寝足りない身体を無理やり起こしてまで教室に来たのは、この為だ。
 (皆と意味合いは違うけどね……)
 このイベント、というよりかはこのイベントが始まるまでの時間、準備の時間が本命だった。クラスメイト全員が教室に留まることに加えて、担任であるモニカ教諭も合唱部の顧問であるために、ここには来ない。
 このタイミングでしかクラスに掛けられた「呪い」は解くことはできない。だから今日。今日しかない。
 チラリと壁に掛けられた時計を覗くと、時刻はすでに3時を回っていた。
 この30分で終わらせる。 
決心をつけたときには、もうすでに脚と口は動いていた。

「み、皆さんに聞いてほしいお話があります」

 
 みんなの前で話すことないのに。誰かがそう呟いた気がした。
 幽霊事件について、その真相をみんなにも知ってほしいの。そう切り出した途端、ほとんどのクラスメイトは私を見つめながら苦い顔を作った。向けられた視線には、困惑とほんの少しの軽蔑が込められていた。
 けれど、そんな視線を受けながらも一度開けた口を閉じるわけにはいかない。
 ――ここで立ち止まってはダメ。ほんの少しでも、踏み出すの。

「灯りも落とされてカーテンも閉め切られていた廊下で、どうしてあの部屋のドアが開いていることに気付いたか、ということなんだけど……月代さん」

 まさか呼びかけられるとは思っていなかったのか、うなだれていた彼女の肩は大きく揺れ、恐る恐る顔を上げた。

「……な、何?」
「思い出したくないとは思うけど、それに気付いたのか、教えてもらえないかしら」
「……なんだか、あそこだけ照らされているように見えたの。でもね、あそこだけ見えるのはその日だけじゃなくて……前から時々そう見えたことがあったの」

照らされているように見えた。あの日だけではなく、他の日も。これはおそらく潮凪先輩のことだろう。その節はうちのファミリアがご迷惑おかけいたしました……。

「月代さんがそう見えたのは、おそらく月明かりのせいだと思うの」

 開けておいた窓から吹き込む風に揺れるカーテン。その隙間から差し込んだ月明かりこそがあの部屋を照らしていた原因だろう。多分、照らされない日は先輩が外に出なかったのか、月が雲隠れしていたかのどちらか。決まってあの場所を開けていたのも、あそこが一番バレないからだったんだと思う。
地面から寮の窓まではかなりの高さがある。私一人分くらいの高さを越えて寮に入るとなると、それ相応の時間がかかるし、音だって出る。寮長室のある東側から帰るなんてものは論外で、西側の「確実に人がいない部屋」の前から帰るのが、おそらく見つかるリスクを最小限に抑えられる方法。潮凪先輩は素人じゃない。一年もあんなことをやっているなかで編み出したんだろう。

「実は私、この前西側に遊びに行く用があったの。その時に見た窓からの景色は本当にきれいだったわ。東側と違って遮るものもないし、夜は夜風を浴びながら天体観測なんてできちゃうんじゃないかしら」

 じゃないかしら。なんて白々しいこと我ながらよくスラスラ言えたと思う。言い終えた後にジワリと滲む汗が気持ち悪い。

「つまり……夜中に誰かが星を見るために窓とカーテンを開けて、そのままにしたっていうこと?」

 無言のまま頷くことしかできなかった。今口を開いたら本当のことを言ってしまいそうな気がするから。
 呪いを解く方法はなにも真実を伝えるということではない。この場の人間を納得させることができたら、それでいい。(たとえ私が嘘をついてもその嘘に気づかれなければ、受け手にとっては真実となる。)

「それこそが月代さんの見た影の正体。今は尾ひれがついて、亡くなった子の幽霊とか言われているらしいけど」

 ただの影が亡くなった子の幽霊になるのだから、噂話というものは本当に厄介なものだ。

「寮の廊下のカーテンって、遮光カーテンではあるらしいけど結構繊維が薄いのよね。それこそ、風に吹かれたらゆらゆらなびいてしまうくらいに」

 言い終えチラリと窓の方を見ると、今日もいい風が吹いていた。海から運ばれてくる涼風はカーテンを揺らし、私達の耳に優しく息を吹きかけるようにしてその生涯を終えた。

「私は……こんなものに踊らされていたの?」
「そう、蓋を開けてみれば「こんなもの」だったの。第一、ここはミッションスクールよ? 幽霊がいるなんて言ったら叱られてしまうわ」

 特にモニカ教諭の前では。
 聖書には悪霊の存在はあるけれど、幽霊というものは記述されていない。ついこの間授業で学んだばかりだ。仮に今回の事件が悪霊の仕業であるとしても、やることが小さいというか……いたずらっ子みたいというか……。

「か、仮にそうだとしたら……私があの時見た制服は何だったの?」

 そして血塗られた制服。おそらく今回の事件が死んだ女の子の幽霊だなんて尾ひれがついた原因は、間違いなくこれだろう。これが今回のお事件が必要以上に大きなった原因にして、私が一番話したくないことだった。

「実はその制服のことなのだけれど……ごめんなさい。あれ、実は私の制服らしいの……」

 クラス中が一瞬、完璧なまでの静寂に包まれた。ある人は目を丸くして私を見ているし、ある人はその整った顔立ちを精一杯歪めていた。言いたいこと、思っていることはもちろんわかる。けれどこれが真実だ、どうやらアレは私の制服らしい。

「ま、前に身体測定をした時、制服に鼻血をつけてしまって……洗濯に出したのだけれど、多分ドアを開ける際に落としてしまって、それに気づかずに閉めたから破けてしまったんでしょうね」
「じ、じゃあ、今倉實さんが着てるそれは……?」
「予備の制服らしいの。私も最近まで気付かなかったんだけど、制服って基本的にオーダーメイドじゃない? だけどこの制服、なんだか袖が少し長い気がして、まさかとは思ったんだけど……」

 実際に袖を引っ張って見せると、私の左手はまるまる袖の中に収まった。一度の洗濯でここまで服が伸びるということは聞いたことがない。他の子も挑戦してみるが、袖は親指の付け根あたりまでしか届かない様子だった。
 改めて考えると、自分の制服だと思い込んでいたものが実は自分のものではなかったなんて、結構怖いわね。破けてしまったことくらい教えてくれてもいいと思うけれど……事なかれ主義なの?

「つ、ついでに言うとね? あの部屋は亡くなった子がいたから閉鎖されたとかじゃなくて、洗濯物を扱っているから普段は閉鎖されているらしいの」

 先日聞いた潮凪先輩の洗濯事情、水の混ざるようなあの音、考えられた答えは洗濯室だった。普段鍵が締まっているのも、洗濯物の盗難を恐れているから。男子じゃあるまいし、同性の下着を盗むような人はいないと思うけど……

「でも、それなら隣の部屋の私は洗濯の音に気付くはずでしょう?」

 確かに、隣の部屋にいるのなら洗濯の音に気付いてもおかしくはない。洗濯室は隣といったけれど、正確に言うと隣ではない。

「隣は隣なんだけど、あくまでもあそこは洗濯室へ続く道なだけで、実際の洗濯室は地下にあるの。全員の制服を洗濯するとなると、少なくとも1フロア分の広さは必要なはずよ」

 昔、ドイツに旅行に行った祖父からこんな話を聞いたことがある。
 ドイツでは、景観の理由から洗濯物を外に干すことはタブーとされているらしい。基本的には屋内干しをしている家庭が多いのだが、旧市街にあるような古い家であると、湿気でカビが生えたり、壁紙が剥がれてくることがあるらしい。その為に、洗濯物を干す為の地下室を設けている家庭が少なくないとか。

「この学院って海沿いに建てられているから、洗濯物を外で干すと海風でベタベタになってしまうの。寮もさほど新しくもない木造の建物だからカビちゃうし……」

 ここはドイツではないけど、境遇がここまで似ているのならば必然的に似たような構造になるのは仕方がないのだろう。
 嘘や憶測が多分にあるけれど、かろうじてこれが真実として成り立ってくれているのならば、それでいい。これが真実ではないと看破される頃には、もうこの噂などどうでも良いもに成り下がっているはずなのだから。
 
「こ、これがプレートのない部屋の真相で、この事件の全容……です」

 伝えるべきことを伝え終えると、今まで話を聞いてくれていたみんなはまた、他愛のない話に花を咲かせ始めていた。もしかしたらこの時点でもう、こんな事件なんてどうでも良くなってしまっていたのかもしれない。
 おもしろくないから。幽霊騒動がここまで話題に上がっていた理由のひとつに、この学院における娯楽の少なさがあったような気がする。ただ、今日はこの後、何がある? 上級生による部活動紹介だ。わざわざ授業の時間を潰してまで準備が行われるほどの大型イベントなんて、私達が食いつかないわけがない。
 けれど、私のしたことが無駄足と思うようなことは決してなかった。月代さんの安堵に満ちた表情は、この結末でないと見られることはなかっただろうから。
 時計をチラリとみると、針は3時25分あたりを刺していた。鉛のように鈍くのしかかる疲れを少しでも取れるように、5分という残されたわずかな時間は机でゆっくり休んでいたい。
 重い体を引きづりながら自分の席に着くと、前に座る貴澄さんがこちらに体を向けた。その表情は快晴の空のように、雲一つない笑顔だった。

「お手柄ね。倉實さん」
「やったことはただの探偵ごっこだけれどね…… でも、とりあえずこれで一段落着きそう」
「よかった」

 今回の事件、着地点としてはとても良い塩梅のところで落ち着いたとは思うけれど、同時にやはり慣れないことはあまりするべきではない、と感じさせられた。私の全身を通じて。
 自ら足を踏み入れたことだったけれど、これでやっといつもの落ち着いた生活に戻ることができると思うと、自然と口からは安堵の息が漏れる。今週はおいしいコーヒーをいただきながら、ゆっくりと読みかけの本でも読みながら、途中で寝ちゃったり、そんな休日にしよう。

「そういえば、倉實さん。今週のお休みなのだけれど……なにか予定があったりする?」

 丁度、訪れた平穏をどう優雅に過ごそうか思案していたところに貴澄さんからお声がかかった。一人で読書は予定に……入らないわよね。

「今週は特に予定は入っていないけど……」
「そ、それじゃあ! 今週の日曜日、いつか約束したお散歩にでかけませんか? 私と倉實さんのふたりで」
 
 彼女は思いがけず欲しがっていたおもちゃを買ってもらった時のように、大きく目を見開いてうれしそうな表情を浮かべていた。
 断る選択肢なんてものは、私にはなかった。
 
 
 思えば、休日に外に出るのは初めてかもしれない。
 貴澄さんと約束をしたその日は快晴だった。燦燦と降り注ぐ太陽はあたりの木々のおかげで、木漏れ日となり、やさしく温かく私たちを包み込んでくれている。
 学院の裏手にある森は園芸部の温室まで続くおかげなのか、丁寧に手入れがされており、森というよりは1つの植物園であるかのような感覚までさせられる。

「お花の周りに植えられているクローバーも、小さくてかわいいわね」
「クローバーは雑草が生えてこないように植えられるものだけれど……確かに、こうしてみるとかわいいわね」

 入学したての頃は桜色に染まっていたこの学院も、今は目が痛くなるほどの鮮やかな紫、黄色、緑とその姿を変えていた。
 月日の流れによって姿を変えるものもあれば、今も変わらずにあるものも私は見つけられた。
 あなただけは、ただそうして笑ってくれていればいい。

「倉實さん? 私に何かついてる? 」
「い、いいえ、そうじゃなくて……」

 辛そうな顔、しなくなったね。
 あなたが私にしてくれたことに比べたら、大したことないかもしれないけれど、私も少しずつ、少しずつあなたのために何かをしていきたい。本人の前ではとてもじゃないけど恥ずかしくて言えないから、これは心の引き出しにしまっておこう。

「倉實さん……! そんなことを思っていてくれてたなんて……うれしいわ」
「き、貴澄さん!? いや、これは思わず口に出てしまっただけで、いや、思っていたことではあるんだけどその」

 この悪癖は私の油断した一瞬の隙も見逃さないようで、ひとつ、またひとつと墓穴を掘り進めていく。唯一幸いだったのは、周りに他の人がいなかったことだ。これを聞いていたのは私と貴澄さんの、2人だけ。いえ、この場合だと2人っきりだからこそ……

「わたし、やっぱり倉實さんのこと好きよ。あなたに出会えてよかった。……礼さん。って呼んでもいい? 」

 礼さん。言われ慣れない言葉に全身をむず痒い思いが走る。私の読んだ本の中だと、大抵呼び名を変える時というのは2人の関係が変わる何か特別なことがあったからというものだ。あの事件を通して、私と貴澄さんの間には関係の変わるほどの何かがあったのだろうか。あくまでも私がしたのは、いつも通りの笑顔を見せてくれる貴澄さんに戻ってもらうこと。変わってしまった教室をいつもの教室に戻そうとしたまでだ。

「わたしたち、学校が作ってくれる友達……ファミリアではなくて、本当の友達になれる気がするの」

 本当の友達。いままでどれだけ手を伸ばしても届かなかったその言葉に、そっと触れられた気がした。

「これからもよろしくね。礼さん? 」
「……っこちらこそ、よろしくね。と、透子……さん」

 眩いくらいに輝く彼女の笑顔と、呼ばれなれない恥ずかしさに上手く目を合わせることができなかった。
 外した視線から見えるのは、降り注ぐ6月の日差しを受けて煌めく木々の輝き。
 夏はもう、すぐそこまで来ていた。
 
虚ろな影は少女とともに  了
 
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