白狼 白起伝

松井暁彦

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終 白の章

 二十

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 心地の良い振動を感じる。全身が酷く傷み、意識を覚醒させる。
 
 霞んだ視界。右腕はだらりと力なく垂れていて、左腕の肘からは骨が突き出している。

「俺はー」
 視界は朱に染まっている。躰は鞍上あんじょうにあった。騎手の腰と白起の腰が、血濡れた布で強く結ばれていた。

「摎…」
 絞り出す声。気付く。摎の背には夥しい量の斬痕があり、血が溢れている。

「おい」
 摎の首が垂れる。懸命に力を振り絞り、辛うじて動く右腕で肩に触れようとする。
 
 摎の躰が崩れていく。抵抗もなく放り出された、躰は輾転てんてんとし、仰向けの状態で止まった。

「と、とまれ」
 白起の意志が通じたのか、馬が勢いよく頭から倒れていく。宙に放り出される創痍。地に落ちた時に、相当な衝撃を受けたはずだが、不思議と落下による痛みはなかった。馬は死んでいた。主同様に至る所に深手を受けていた。

「摎」
 咳と共に口の中が血で溢れた。呼吸が苦しい。肺腑が恐ろしく傷む。
 
 右腕で砂を掻くように、這這の態で進む。どれほどの時を要したのだろうか。摎の傍らに辿り着いた時、彼が絶命しているのを悟った。

「すまない」
 呻吟の末、仰臥する。
 紅の空が拡がっている。旋毛から足の指先に至るまで、氷のように冷えている。

「俺は死ぬのか」
 視界に拡がるのは、無窮の空ばかり。其処に天へと続く階などはない。

「最早、剣を執ることすら叶わぬか」
 喀血かっけつ交じりに、白起は口許に苦笑を浮かべた。俺は自分の道が正しいと信じ、歩み続けてきた。信じるものの為に、数え切れない人々を殺し続けてきた。

「貴方が信じ、託してくれた夢ですら、幻だったのでしょうか」
 だとすれば、俺が目的の為に殺した、何十万という人々は何の為に死んだというのか。

「殿‼」
 馴染みのある声が聞こえる。

(ああ。之は王翦の声だ)
 死を前に頭がおかしくなったのか。こんな所に王翦がいるはずは。

「殿!」
 紅の空が消え、視界には王翦が涙する顔が拡がっている。

「何故、お前が此処に…」
 寒さで唇が震える。

「戻ってきたのです!」
 頬に落ちる、涙の温もりが心地よい。

「馬鹿な奴だ…。此処は危険だ。今すぐ逃げろ」

「嫌です!俺は殿をお助けする為に戻ってきたのですから」
 王翦は感情を剥き出し、泣き叫ぶ。

「しまりのない顔だな」
 王翦のくしゃくしゃな顔があまりにおかしく笑えた。
 そう。素直に笑えた。人並みに。

「駄目だ。俺はもう死ぬ」

「そんな…」
 馬蹄と怒号が近くで聞こえる。

「行け。奴等の狙いは、俺の首だ」

「嫌です!」 
 涙で濡れた頬を指先で揺れる。指先に感覚はなかった。

「ああ。お前…。あの御方が亡くなった時に見せた、魏冄ぎぜんの顔にそっくりだ。やはり親子なのだな」
 嗚咽がひと際、激しくなる。

「殿も俺にとって、父なのです」

「そうか…。俺も人並みの男であれば、お前のような息子がいたのかもしれないな」
 苦悶の声を漏らして、上半身を持ち上げる。

「王翦」
 転じた視界。

「そうだったのか…」
 王翦の背後に、天へと続く階を視た。果てには光輝く理想郷がある。
 俺や魏冄が駆け上がるものではなかった。

「あれはお前が駆け上がるものだったのか…」

「殿」

「無駄ではなかったのだ。俺と魏冄がやってきたことは」
 眼から熱いものが流れ出る。触れる。馬蹄の響きは指呼の間に。

「生きろよ、王翦。遺志は託したぞ」
 白起は曇りのない、心の底からの笑みを浮かべた。

「いたぞ!」
 声がする。
 王翦は涙で顔を濡らせたまま、最期に力強く拱手した。

「さらば」
 踵を返し、駆けていく。
 彼は己の死を糧に、天への頂へと手を伸ばすであろう。

(ああ。之でいい。俺の役目は終わったのだ)
 摎の屍に手を伸ばす。佩剣を抜き放つ。
 
 振臂一呼しんぴいっこし、剣の刃を頸動脈けいどうみゃくへ添わせる。
 
 仰いだ空。紅が溶けていく。燦燦さんさんと降り注ぐ陽の光。俺はあちらへは行けない。足許には奈落の底から這いあがってきた、黒き怨念達が待っている。欠落した己にも、天が与えた役割はあったのだ。

白起は穏やかな表情のまま、躊躇なく首筋に沿わす刃を引いた。
 
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