白狼 白起伝

松井暁彦

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終 白の章

 十五

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 范雎は絶句した。
 
 横目で見遣って猛鷔は言葉もなく、悲壮感漂う表情を浮かべている。

「今すぐ軍を退くべきですな。戦とは数ではどうにもならないことがあるのですよ」
 対岸で猛然と兵を斬り斃していく白起。
 
 此方の視線に気づいて、奴は顔を向けた。血に塗れた顔に、嘲笑を浮かべた。

「ふざけるなー。今此処で私が退けば、奴は嵩に懸かって、咸陽まで軍を進めるぞ」
 忿怒と屈辱が綯交ぜとなり、胸中が紅蓮に染まる。

「致し方ありませぬ。これ以上、無駄に兵を死なせる訳には行きませぬからな。咸陽近くまで下がり、態勢を整えるのが、今は最善の策かと」

「貴様!私に恥をかかせる気か。私が退けば王や邪なる狡吏どもは、此度の敗戦の責を私一人に擦りつける」
 今にも范雎は猛鷔に掴みかかりそうな勢いで捲し立てる。
 
 対して猛鷔は凛然と向かい合う。

「戦とは最後に勝てば良いのです。我が軍の損害は多大なものですが、まだ敗けと決まった訳ではありませぬ」

「ぐううううう」
 百足が全身を這うような不快感がある。

「うああああああああ」
 范雎は兵車の上で、歯を噛み締めながら、何度も蹈鞴たたらを踏んだ。

「っく。退却をー」
 その時である。北の空が突如として暗くなり、漆黒の雲に雷霆が走った。
 怖心が渦巻く。

「まさか」
 漏らした猛鷔の顔色は蒼白であった。
 
 彼の視線は河へと向けられる。范雎も彼の目線を追った。水面に浮き立つ、無数の水泡。その水泡は上流から下流へと流れ出ている。


「退却だ!!!!」
 猛鷔はまなじりが裂けんばかりに眼を見開いて叫んだ。刹那。地を揺るがすほどの轟音が轟いた。

「あれはー」
 上流から突如として、押し寄せて来る濁流。人の背丈二倍ほどの波の高さを維持している。

「あっ」
 と声を漏らした時には遅かった。
 河中で行き場を失くしていた、兵士達が悲鳴を上げる間もなく、濁流にのまれていく。

 鱗雲は天気が崩れる兆しである。そして、流れ出てくる水泡は、上流の方は既に雨が降っている証左。
 
 濁流は荒れ狂うみずちが如く、敵兵を喰らって行った。既に此方側に上陸を終えた、敵兵は駆逐している。不規則に高い飛沫を上げる、濁流の隙間から、茫然自失とする范雎の姿を見た。

 剣尖を向ける。

「次はお前の首を貰う」

 口許に怜悧な笑みを浮かべると、白起は馬首を返した。
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