白狼 白起伝

松井暁彦

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終 白の章

 十三 

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(ああ。天を感じる)

 まだ白起の中に、天の寵の残滓ざんしが残されている。
 
 憎悪の黒炎が、己の中で立ち昇る。蘇る記憶。あらぬ罪で母を眼の前で殺され、己は凌辱の限りを尽くされた。ただ私は清廉かつ実直に生きていた。私は世に懸命に尽していた。なのに、天は讎を以って返したのだ。

これほど醜い容貌にされ、辛酸を舐め続け、名も捨て、地べたを這いつくばるようにして生きてきた。私と貴様の何が違う。何故、お前だけが天に愛されるのだ。

最早、范雎の中で渦巻く憎悪の正体は、無限の悋気りんきである。猛烈な悋気は、時として人を修羅へと変える。双眼を燃やす范雎に対して、白起は平然と視線を薙いだ。

 蔑むように一瞥し、馬首を返す。范雎の悋気が爆ぜる。

「舐め腐りおって。全軍出るぞ!」

「挑発に乗ってはなりませぬぞ。渡河の最中は、最も無防備となるのです。ましてや、敵は上流側に布陣しておりまする。このまま流れに逆らう形で渡河すれば、兵は疲弊し、瞬く間に蹴散らされてしまいますぞ」
 珍しく猛鷔は声を荒げて強諫きょうかんした。
 
 それもそのはず。兵法に通暁しているものならば、如何に范雎軍に地の利が無いかは一目瞭然。だが、范雎は戦というものをまるで分っていなかった。確かに兵数は倍以上。敵はたった一万の騎兵である。数の差で圧倒できると思い込んでも無理はない。
 
 しかし、敵は常勝将軍白起である。敢えて、渭水の支流の上流に布陣したのには、明確なる意味がある。数による圧倒的な逆境を覆すには、兵馬の質。戦略が鍵となるのだ。

そして、白起は惨憺さんたんたる拷問の末、范雎の異常性というものを本人以上に知悉していた。狂気を剥き出した、范雎に猛鷔の諫言を聴きいれるほどの冷静さと器量はない。

「かかれ!」
 五万の吶喊と共に、第一陣が渡河へとかかる。

 

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