白狼 白起伝

松井暁彦

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終 白の章

 十一

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 その日の夜のこと。三人は地から峨峨ががと突き出した大岩を風よけとし、野営することとなった。彼等も食糧は携帯していたが、燻した兎の肉を分けてやると、大いに喜んでくれた

饒舌な小太りの男は韓暎かんえい朴訥ぼくとつとした痩せ気味の男は韓成かんじょうといった。似てもつかないが、二人は血の繋がった兄弟なのだという。

「へぇ。兄ちゃん。狩りもできるのか。逞しいな」
 韓暎が兎の肉を貪り食いながら、呵々と笑う。

「お二人は、西域で商いを?」
 焚火の炎が三人の顔を照らす。

「ああ。俺達はさる豪商の元で働いていてな。その御方は遥か西方にある月氏げっしなどにも顔が利く故、時たまこうして西域に足を伸ばして商いをしている。俺達は咸陽に戻る道中だが、商人として荷が空のまま帰る訳には行かん。だから、道中にある邑々に立ち寄って、都会で売れそうな珍しい物を買い付けながら帰るのさ」

「あの人は無駄なことを何より嫌う」
 突然、韓成が口を開いた。

(豪商―。もしや)
 呂不韋の福福ふくふくしい顔が脳裏を過る。

「そのさる豪商とは、呂不韋殿のことでは」
 二人が齧り付いていた肉から口を離す。兄弟が顔を見合わせる。

「兄ちゃん。旦那を知っているのか?」

「ええ。まぁ」
 呂不韋の元で働いているのなら信用が置けると思い、王翦はこれまでの経緯を語った。

「へぇ。軍神白起殿がね。確かに旦那は白起殿にえらく目をかけておられた。それで、あんたは白起殿の安住の地を見つける為に旅をかー。くぅ。泣かせるね」
 韓暎は目許をごしごしと袖で拭った。

「よし。俺達に任せな。行先の集落で口利きしてやるからよ」

「待て。兄貴」
 満面の笑みを浮かべる韓暎に対して、弟の韓成は苦虫を噛み潰したような苦い顔をしている。

「王翦といったか。白起将軍を死なせたくないのなら、今すぐ来た道を戻れ」

「どういうことです?」
 韓成は脂で濡れる、唇を拭う。

「旦那が仕切る交易路は、この辺りにもそれなりの数が走っている。数百里間隔で旦那の元で働く商人達だけが使える宿駅もある。俺は一つ前の宿駅でこんな話を聞いた。白起将軍は王命に背き、その首に莫大な賞金が懸けられたと。対する白起将軍は陰密の地にて挙兵し、旦那が軍備を整え、一万の騎馬隊を率いて、咸陽へと向かったと」

「まさか。殿はー。そのー。とても戦える状態では」
 不意に過る、白起との別れの時。

「おいおい。待て。俺はそんな話はー」

「兄貴は席を外していたからな」
 兄弟の会話が、まるで頭の中に入ってこない。

(そんな。では殿はー)
 今になって合点がいく。摎は執拗に、王翦に西域行きを勧めた。自分である必要はなかった。

「くそっ。そういうことか」
 白起は范雎と刺し違えるつもりでいる。
 
 彼の悲しいほど不器用な優しさであることは分かる。でも、どうしようもないくらいに悔しかった。涙がとめどなく溢れ出る。立ち上がる。今となっては、呼吸する間も惜しい。

(戻らなくては)

「俺行きます!」

「お、おい」
 韓暎は急展開に困惑している。

「待て」
 徐に立ち上がった、韓成は荷馬車を曳く馬の綱を斬った。

「こいつを持ってけ」

「え?」

「替え馬だ。軍馬ではないから、お前の愛馬ほど速度と胆力はないが、それでも一頭だけで駆けさせるより、よっぽど距離を稼げる」

「でもー。それでは、貴方達の荷馬車が」

「気にするな。旨い肉を食わせてもらった。その礼だ」
 韓成が白い歯を見せる。

「白起将軍は旦那の上客だ。白起将軍が討たれれば、俺達の賃金も減る。貰ってくれ」
 韓暎が弟の傍らに並び、太鼓腹を気前よく叩いた。
 出逢って間もない兄弟の優しさに涙が滲む。

「有難うございます」
 深々と低頭する。

「おう。行け。青年」

「はい!」
 王翦は馬に跨った。片手にもう一頭の馬の手綱を握る。

「殿。どうかご無事で」
 天空から射す曙光を目印に、王翦は馬を疾駆させた。
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