白狼 白起伝

松井暁彦

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終 白の章

 六

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 咸陽に一時、戻っていた呂不韋が陰密に帰還した。

「本当に良かったのですかな?王翦殿は、武安君を恨むことになるやもしれませんぞ」
 事情を知った、呂不韋は苦い顔で告げた。

「これで良い。奴は此処で死んで良い男ではない」

「確かに。彼は穣候魏冄殿と武安君白起殿の薫陶を受けた若者。死なすのは惜しいですな」

「で、首尾の方はどうなのだ?」
 呂不韋は莞爾かんじとした笑みで答える。
 呂不韋と摎に両脇を支えてもらい、館の表へ出る。

「順調のようだな」
 集落には多くの人が集まっていた。その大分が兵装している。厩には馬が溢れており、次々に外から武器を積んだ馬車が運ばれてくる。

「殿!」
 と胴間声を上げて、駆け付けてきたのは、白起の麾下の一人。司馬靳であった。彼は好青年らしい、気持ちのよい笑みを湛えている。

「兵馬の仕上がりは?」

「この上なく」
 興奮冷めやらぬ様子で答える。

「司馬靳。呂不韋から話はあっただろうか、もう一度訊く。後悔はないな?」
 司馬靳が笑みをおさめる。

「はい。王齕殿や王騎殿。それに胡傷殿は、古くからの殿の麾下であり、殿の分身ともいえる方々です。それ故に、彼等は之から殿の御遺志を引き継ぎ、王翦を守ることに努めるでしょう。ですが、私は比較的新参者。諸先輩方の前で、私ができることなどごく限られております」

「死ぬぞ。お前」
 見据えた、司馬靳は唇を真一文字に結ぶ。

「元より承知の上」
 溜息交じりに息を吐く。

「ならば、俺と共に死ね」
 司馬靳は白い歯を見せた。

「喜んで」
 
 足早に準備の為、喧噪の中に駆けていく、司馬靳を見送る。

「そうだ。武安君。お渡しする物が」
 呂不韋は指呼の間にいる下男に何やら命じる。下男が駆けて行き、戻って来ると、下男の腕の中には布で巻かれたものが抱えられていた。其れを受け取った呂不韋は、下男に脇を支えるように命じる。

「武安君。之を」
 布を広げると、其処には鞘に納まった、二振りの剣があった。

「何故、之が」
 銀牙ぎんが黒爪こくそうは、范雎の虜囚となった折、押収されているはずである。

「猛武殿が手を回して、取り戻して下さったのですよ」
 にこりとし、呂不韋は包みを更に広げた。
 
 触れる。剣気が漲っている。双剣は主の元に戻るのを待ち望んでいたのである。

「有難い」
 萎えた総身に力が漲る。

(俺にはまだ爪牙がある。爪牙がある限り、俺は戦い続けることができる)
 
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