白狼 白起伝

松井暁彦

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終 白の章

 四

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 白起は上半身だけを床から起こし、正面だけを見据え、両足に力を込めた。腿から上は微妙に動くが、腿から下はぴくりとも動かない。
 
 深呼吸。静寂が漂う。

「ふははは」
 感情が綯交ぜとなって、哂いが込み上げてくる。

「白起―」
 ぼそりと己の名を口にする。かつての己は、姓名を持たないただの奴隷であった。通り名として、白と呼ばれてはいたが、それは本当の名ではない。幾ら記憶を辿っても、真名を思い出すことはできなかった。覚えていることは、少しだけ。
 
 邑を襲った、義渠が眼の前で父を殺し、母を犯し、殺した光景だ。あの時、俺は物陰に隠れ、涙を流し震えることしか出来なかった。

当時、俺には人並みに感情の機微があったのだ。証拠に涙も流せた。ならば、両親の死が、俺を瑕疵ある人間に変えたのだろうか。確かに、両親が眼の前で殺された瞬間、自分の中から何がとても大事なものが零れていったような感覚を今でも覚えている。

かつては、俺も人だったのかもしれぬ。そして、武王と魏冄と出会い、役目を与えられた。道しるべたるものがあったからこそ、俺は今の今まで戦い続けてこられた。

起―。この名が俺に、艱難かんなんに立ち向かう意志を与えた。魏冄は言っていた。武王はたとえ、俺が剣としての存在であっても、生きて己の物語を紡ぐことを望んでいると。

武王は知っていたのだろう。俺には戦う力しか残されていないことを。だからこそ、その忌むべき力に真っ当な意味を持たしてくれたのだ。だがー。

「剣としての役割も、終わりに近づいているようです」
 
 しとねを払うと現れる、虚弱化した両足。どれだけ踏ん張ろうと、もう二本の足で立ち上がることは叶わない。
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