白狼 白起伝

松井暁彦

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終  黒の章

 二十二

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 数日後。一行は陰密に達した。
 
 白起の意識は完全に戻らなかったものの、何度か呻くように水だけが所望した。陰密に達すると北には岩肌目立つ灰色の景色が拡がっており、何処も緑が乏しい印象を受けた。禿げた山峡の間に、呂不韋が密かに倉を置く集落があった。鄙の地であるが、集落には活気が溢れていた。

「彼等には、私の倉を警護するにあたって、相応の金を握らせています」
 呂不韋の砕いた説明になるほどと思う。確かに着ている衣服といい、暮らし向きといい、不自由は無さそうだった。

「私の客人とあれば、彼等も悪いようには致しませぬ」
 安堵すると、呂不韋の館に招かれた。
 
 彼の言の通り、館というには、余りも質素であった。母屋と形ばかりの中庭が拵えてあるだけの邸宅。とても館とは呼べない。それでも、満身創痍の白起を抱えた二人には、隠れ蓑としては十分過ぎるほどであった。

「集落に一人、医者がおります。老齢ですが、腕は確かです。呼んできましょう」
 母屋の一室に白起を寝かせると、呂不韋は休む間もなく、集落の方へと向かって行った。
 
 半刻後。若い男が矍鑠かくしゃくとした老人を連れてきた。老人は医師らしく、つらつらと横たわる白起の創痍を眺めた。

「これは酷い。生きているのが不思議なくらいじゃ」
 嘆息と共に、老人が漏らす。

「治りますか?」
 と口に出したものの、どの傷に対して言っているのかも、自分で分からなかった。それほどに白起の傷は、全てが深い。

「腱は切られておるな。もう歩けまい。それに左目。これも駄目だ。抉られておる」
 掌で白起の痩身に触れる。

「ふむ。可哀そうに。肋骨も幾つか折れておる。皮膚が裂けておる部分は、縫合すれば何とかなるじゃろう。限り限りの所じゃ。あと数日遅れていれば、傷が化膿し腐り始めておった」

「では」

「ああ。命だけは助けてやれる」
 老人の言葉に、二人は顔を見合わせる。

「全く、呆れるほどの生命力じゃて。しかしな」
 老人の声が低いものへと変わる。

「問題は躰の方ではない」

「というと?」

「心じゃ。この男は想像絶する痛みに耐え抜いた。だが、到底まともな心を保ったままでは耐え抜けなかったはずじゃ」

「まさか、心が毀れていると」
 摎は眼を見開きながら訊く。

「断言はせん。わしの専門外じゃからな」

「殿―」
 心が毀れている。その言葉を何度も、胸の中で反芻する。否定はしたい。だが医師の言う通り、白起は地獄のような痛みに耐え抜いた。己ならば、心を保ったまま、終わることのない苦痛と向き合うことが出来ただろうか?

「さぁ、外に出ていなさい。今から傷を縫う」
 二人は暗澹あんたんとした心地のまま、錆びた大地の風を頬に受けた。
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