白狼 白起伝

松井暁彦

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終  黒の章

 二十一

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 馬車は再び駆け始める。

呂不韋りょふい殿。感謝いたします」
 馭者を務める、呂不韋が幕の隙間から顔を覗かせた。

「何を申されます。武安君は私によっても、重要な顧客。みすみす失ってなるものですか」
 ふぁふぁふぁと高々に笑う。

「危ない橋を渡らせてしまいました」

「商いというのは、常に命懸けなものなのですよ。私のように武具なども幅広く扱っている、商人であれば尚更です」
 もう一度、摎は慇懃に謝辞を述べると、

「何処へ向かっておられるのですか?」と訊いた。

陰密いんみつへ向かおうと思います」

「陰密ですか」
 ぼそりと呟くと、「はい。咸陽より北西に約二百里の地です」と呂不韋は教えてくれた。

「何故、陰密なのです?」
 摎が訊く。陰密は黄河の西側を呼称する、河西に含まれる土地である。
 
 更に北へ進めば、義渠ぎきょのような遊牧騎馬民族が跳梁ちょうりょうしている。遊牧民族は定住を好まず、季節ごとに居住区を変える。奴等は生まれながらに野蛮な戦士である。故に度々、秦の北西域も国境を侵され、略奪の被害にあっている。

 白起が義渠を討伐し、悉く西方へと追いやったが、それでも完全に種を根絶した訳ではなく、西の果てから南へ降ってきている者も数は多くはないが、存在はする。

摎が不安に思っているのは、道中奴等に出くわそうものなら、対処する術などないからだ。幾ら摎と王翦が武技に秀でていても、騎馬する蛮人共に集団で囲まれては、手も足も出ない。

「陰密には、私が所有する倉が幾つかありましてな。取り扱う品が多様な上、膨大なので、全土に倉と商品をあえてばらけさせてあるのですよ。私の財を狙う、不埒な者も多い故。その防禦策ぼうぎょさくという所でしょうか。それと按ずるには及びませんよ。もう少し西へ行けば、私の仲間達が交易路を守っているので、匪賊ひぞく共に襲われるようなこともありませんし」
 呂不韋は気持ちの良い笑みを向ける。
 
 なるほど。この話の一端だけでも、如何に呂不韋が高い影響力を持つ豪商なのか推し量れる。中国全土に独自の交易路と経済圏を持ち、高官から布衣の者にまで幅広い手蔓を有する。

(まるで、陶朱公范蠡とうしゅこうはんれいのような御人だ)と思った。
 
 范蠡というのは、越王勾践えつこうこうせんを輔弼して、呉越抗戦を制し、越に隆盛の時代を齎した功労者である。しかし、彼は驕慢なる越王勾践に見切りをつけ、在野に降った。後に商人となり、巨万の富を得た。

范蠡と比肩しても見劣りしないほどに、呂不韋の商いの幅は広く、商いに関して、あまり関心のない王翦ですら、呂不韋という豪商に畏怖の念を抱く。

「では、陰密には呂不韋殿のお住まいも?」

「ええ。ありますとも。とても咸陽に構えた館には及びませんが、武安君ぶあんくんの療養には申し分ないかと」
 白起はまだ意識を失ったままだ。陽が昇り、馬車の中にも燦燦さんさんと陽光が降り注ぐ。とても見ていられなかった。至る所にきりのようなもので、肉を抉った痕跡がある。

「殿」
 丸く細くなった背に触れる。掌に感じる、僅かな鼓動があまりにも、悲し気であった。
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