白狼 白起伝

松井暁彦

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終  黒の章

 十六

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「此奴は?」
 猛禽もうきんの如き眼で、王翦をじろりと睨む。

「按ずるな。かつて殿の従者を務めていた、王翦という男だ」
 男はふんと鼻を鳴らすと、値踏みするように、下から上へと黒目を動かす。

「此奴が軍神の従者だと。頼り甲斐が無さそう奴だ」

「何だと!?」
 余りの高飛車な物言いに血が昇る。

「猛武、よせ。時間も惜しい。要件は早く済ませよう」
 ちっと猛武は舌を鳴らす。

「白起殿は相府の南に位置する、范雎の館の地下で囚われている」

「まさかとは思っていたが。あえて殿を手元に置いているとはな」

「助け出すなら早い方がいい。あんたが想像している以上に、范雎は狂っているよ。白起殿を殺さぬ程度に、毎日嬲っているそうだ」
 猛武が憂い顔を見せた。その表情を不審に思いながら、王翦が語気を強めて尋ねる。

「摎殿。この男は本当に信用が置けるのですか?」

「俺は猛武を信用していいと思っている。この男は自分の行いを酷く悔いている」

「悔いている?」
 更に問い詰めようと、口を開きかけた時、摎が目顔で制した。

「殿の容態は?」
 猛武が一瞬、逡巡を見せた。苦悶に満ちた顔で告げる。

「范雎の館に送り込んだ麾下の話によると、相当に容態は悪い。少なくとも両足の腱は切られている」

「何だと」
 炎の如く、湧き上がる忿怒ふんぬ

(范雎。ただではおかぬ)

「正直、白起殿はいつ死んでもおかしくはない。それほどに拷問による傷は深い」
 摎は黙していた。だが、それでも分かる。突き上げて来る、彼の激情が。

「明日。殿を助け出したい。猛武。手引きを頼めるか?」

「ああ。送り込んだ麾下に、館の衛兵達に睡眠薬をもらせる。だが、全員は不可能だ。ある程度、力押しも覚悟しなければならん」

「ああ。覚悟している」

「しかし、先も言ったが白起殿は自力で歩けるような状態ではない」

「もう一人、あてがある。明日、協力を打診してみるつもりだ」

「信用できるのか?」

「ああ。利には聡い男だからな。みすみす大口の商売相手を見殺しにするような奴ではないさ」
 猛武は怪訝な表情を浮かべたが、あえて問い詰めては来なかった。

「では、明日。決行だ」

「ああ」

「御意」
 何処か蚊帳の外である感覚は否めないが、それでも王翦は滾っていた。

(必ず殿を生きて連れ戻す)

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