白狼 白起伝

松井暁彦

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終  黒の章

 三

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 范雎は秦王と共に、長平に布陣した元白起軍の陣営に到着すると、王齕、王騎、胡傷や司馬靳しばきんといった、諸将の武勲を言祝ことほどいた。

白起の消息は不明。以前、白起は敵方に強い影響力を有している為、味方には箝口令を徹底させている。秦王は范雎の薬籠中物やくろうちゅうぶつである、五大夫ぎたいふ王陵おうりょうを総大将に任じ、邯鄲攻めを敢行した。

 同時に范雎達は陣を引き払い、咸陽への帰路についた。その帰路の途中。

「王齕等を生かして良かったのか?」
 二人は野営地に張った、大幕舎の中で向かい合うように座している。挟む矩形くけいの机には、次々に色彩豊かな酒肴が運ばれてくる。范雎は麦酒が注がれた、黄金の杯を手に執った。

「所詮、奴等は白起の飼い狗。主が眼の前から消えた今、自国に弓を引くようなこともありますまい。其れに白起が消息を絶った今、秦の軍事の質は著しく低下しています。大王様にとって、白起は眼の上の瘤に過ぎぬ者。だが、秦の兵事を根底から支えていたのも、また白起なのです。天下を見据えるのならば、彼の薫陶くんとうを受けた将校を手許に置き、飼い馴らしておく必要があります。一から将校を育てていれば、とても大王様の御代で天下統一など成せませぬぞ」

「しかしだな」
 嬴稷えいしょくの箸は、一行に進んでいない。

「白起が消えたのは、我等の復讐の機会を窺う為。欲を言えば、適当な罪を擦りつけて、首を刎ねてやりたかった所ですが、恐らく穣候の訃音が、何処からか漏れたのでしょう。白起が仮に飼い狗を巻き込んで、復讐を果たすつもりだったならば、わざわざ彼等の前から姿を消すことはしなかったはず」
 淡々と語り、麦酒を喉に流しこむ。

「ならば、白起は単独で我等の命を虎視眈々と狙っているということか?」
 秦王の黒ずんだ顔が見る見る内に蒼くなっていく。

「ご安心下さい。大王様の護衛は、平時の三倍以上に増員しております」

「そうか」
 ほっと一息をついたのか、秦王が杯に手を伸ばした。

 范雎は醒めている思考を巡らせる。敵の立場になって物事を考える。之は敵を欺く上でも兵法においても、何よりも肝要なことだ。
 
 己が白起ならどうするだろうか。間違いなく魏冄を死に追いやった、己の首を狙うはず。その為に、白起はこれまでの赫赫かくかくたる功績、名誉を捨ててまで消息を絶ったのである。

 では、何時実行するか?咸陽への帰途の道中か。いや、違う。単独犯であれ、余りにも警備の眼が厳しい。白起といえ、あの目立つ風貌では陣内に忍び込むことは不可能だ。

 とすればー。おぼろを纏っていた、白起の思考の核が明瞭になってくる。

(来るなら来い。白起よ。返り討ちにしてやろうぞ)
 
 范雎は酒を呷り、欠けた醜い歯を露わにした。

 
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