白狼 白起伝

松井暁彦

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長平の闇

 六

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「殿」
 白起は微動もしない。

「いや」
 王齕は決意を固めた。

「麾下としてではなく、友として告げる。こんなことはよせ。これから、お前が行おうとしていることは、禁忌に等しい。一見、国の為に捉えられなくもない。実際、今の秦には投降した二十万を越える趙兵を養ってやる余裕もない。奴等を生かしておけば、禍根の根も残る。だがお前が連中に抱く、それは単なる私怨だ。いや、違うな。奴等は魏冄殿の死に一切関与していない。そうさ。お前は憎悪にのまれ、自棄やけになっているだけだ。私怨で人を殺すな。お前が今、此処で連中を虐殺すれば、俺達は本当にただの殺戮者になる」
 白起は黙して、孔を掘り続ける趙兵達に眼を向けている。

「俺達をただの殺戮者にしないでくれ。俺達の手は血に染まっている。それでも、心を保ち戦い続けてこられたのは、何時か武王やお前の悲願が拠り所になっていたからだ」

「王齕」
 白起が王齕に向き直る。
 
 思わず声が漏れそうだった。震える唇を真一文字に結び、眼は赤く充血している。まるで、親を亡くした子供のような顔だった。

「お前―」
 己達が白起の悲願を拠り所にしていたように、白起は武王と魏冄を拠り所にしていたのだ。そして、何時しか心を欠いた傀儡くぐつ傀儡は、心の萌芽を胸に宿していた。萌芽を摘まれた人とは脆い。

「俺はもう」
「やめろ。白起!お前はまだやり直せる。まだ、お前には一縷の希望があるではないか!そうだ!翦がいる。翦がいる限り、魏冄殿の志もあいつの中で生き続けている」
 王騎。胡傷も涙を流し訴える。

「王齕。王騎。胡傷。お前達は良い奴だ。屈折した、俺のような男にもよく仕えてくれた」
 三人が目配せをする。之まで感謝の意を示されたことなど、一度もなかった。

「お前達は今より、白起軍から除隊扱いとする。各々趙土に留まり、御国の為、守りに徹しよ」

「えっ?」
 瞬間。三人の周囲を兵士が囲った。

「之はー」

「達者でな。もうこれ以上、お前達を巻き込むことはできない」
 悲しそう顔だった。正に孤狼。何処まで世界と相容れることのできない、純白の狼である。

「待て!」
 瞬間。王齕は頭頂部を打たれ、意識は混沌へと落ちた。

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