白狼 白起伝

松井暁彦

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廉頗

 十

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 王翦は飛び起きた。同時に身が裂けるような激痛が全身を襲う。呻吟。眼が覚めると、其処は幾つものしんだいが等間隔に並んだ、幕舎の中だった。

「おう。気が付いたか」
 声を掛けたのは、軍医然とした猿顔の男だった。

「此処は」
 声は涸れていた。思い出そうと記憶の淵に触れるが、暈を纏った領域に侵されていて、朦朧としている。

「まぁ、之でも飲みな」
 男が椀に水を注いで、手渡してくれる。並々と注がれた、水を目の当たりにして、自分が酷く餓えていることに気づく。捥ぎ取るようにして、椀を攫い、水を飲み干す。沁み亘る。四肢に。血流に。魂に。僅かながらの力が蘇る。

「しかし。あんた大した生命力だよ。普通の人間なら、とっくに死んでいるような深い傷だったんだがな」
 男が感心しながら、王翦の痩身を眺める。全身に巻かれた包帯。痛みの場所など、特定できないほどに、未だ全身が悲鳴を上げている。

「俺はー」

「あんた。何があった?此処に運び込まれた時は、ずっと何か呻いていたぞ。確か父上がどうのこうのって」
 突如、頭に渦巻く暈が晴れた。豁然かつぜんと望む、記憶の谷。

「父上!」
 叫んでいた。

「俺はどれほどの間、眠っていた!?」
 軍医の肩を強く掴む。

「そ、そうだな。一月半は昏睡状態にあった」

「そんなに!?」
 愕然とした。

(俺は孫竜そんりゅうの死を無駄にしたのか)
 眩暈がする。自分の不甲斐なさを呪いたくなる。

「総帥は今、何処に?」
 あの追っ手の首魁は、白起に明らかな敵意がある。だからこそ、父魏冄の死を執拗に隠匿しようとしているのだ。

「伝えなくてはー。次は殿の御命が危ない」
 牀から降りる。するとどうだろう。衰え萎えた足に踏ん張りがきかず、前のめりの恰好で手を付いた。

「無理をするな。あんたは一月半もの間、生死の境を彷徨っていたんだぞ」

「いいや。駄目だ。今すぐ殿の元へ向かう」
 蠕動ぜんどうする四肢を叱咤し、這這の態で幕へと向かう。

「よせ。縫合した傷口が開く」
 男の言う通り、袈裟に巻かれた包帯からは赤い血が滲んでいる。

「馬だ。馬を用意してくれ!」
 歯を食いしばり、尚も遅々と歩を進める、王翦を見遣って、男は嘆息した。

「あぁ。分かったよ。もうどうなってもしらねぇからな!少し此処で待ってな」
 暫くの後。男は馬と具足。剣を手にして、幕舎の前に現れた。

「かたじけない」
 眼で謝意を示す。今は深く頭を垂れる、気力もなかった。男の手伝いで具足を着用し、腰に剣を佩く。

「ほら」
 男が馬の背に革袋を乗せてくれた。

「気休めかもしれないが、傷口の化膿止めが入っている。毎日必ず二度、傷口に塗ることだ。さもない破傷風はしょうふうを起こして、あんた死んじまうぞ」

「有難う。善処するよ」
 男は微苦笑で返した。

「俺の知る限り、白起総帥は趙の長平で足止めを食らっているはずだ。馬で五日もあれば、辿り着けるはずだ」
 王翦は苦痛で顔を歪めながら、鞍に身を置いた。

「ああ。承知した」

「なぁ。あんたの様子で、総帥に何かしらの危険が迫っているのは分かる。でもな、あんたもまだ若いんだ。せめて命を捨て去るような、真似はしなさんな。あんたに死なれると看病した、俺の寝覚めが悪いからよ」
 笑みを返した。自然に笑えていたかは定かではない。

 王翦は馬の肚を蹴った。目指すは趙の長平である。

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