白狼 白起伝

松井暁彦

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廉頗

 五

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 肌がひりついた。廉頗は四顧するが、何も見当たらない。徐に櫓から身を乗り出し、空を仰いだ。

 雲烟うんえん鴻鵠こうこくを模した形で拡がっている。

「気のせいか」と態勢を戻そうとした矢先。
 鴻鵠の雲の中で、何かが煌めいたのを見た。
 
 雲が霧散する。
 
 凝視する。刹那の静謐せいひつ慄然りつぜん

「逃げろ!!!!!!」
 叫んでいた。
 
 穿孔機せんこうきの如き、勢いで此方に向かってくるのは、槍の穂先に均しき矢。
 
 かつての記憶が鮮明に蘇る。
 
 廉頗は二人の将校を両脇に抱え、櫓の上から跳躍した。眼下に張られた天幕が衝撃を殺す。
 
 突き破った天幕の隙間から、大矢が櫓そのものを抉り倒すのが見えた。
 
 衝音―。

「あの野郎」
 呻き仰臥する将校を放り出し、廉頗は全身を巡る熱い血に己を委ねようとした。
 
 蹈鞴たたらを踏み、咆哮する。

(白起の罠だ。俺を誘い出そうとしてやがる)
 
 武人としての本能と理性が、激しくせめぎあう。
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