白狼 白起伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
267 / 336
血意

 十一

しおりを挟む
 魏冄が陶にて衛士に拘留され、咸陽へ送還される頃、王翦は陶を出立し、白起が留まる上党へ向かおうとした。だが、魏冄が突き付けた条件を反故にし、衛士が陶を出ようとする、王翦の身柄を確保した。

理由は判然としないまま、王翦は二ヶ月もの間、陶の獄舎に拘留された。同様に陶に留まっていた、黒狗の数人と魏冄の館に住まう使用人も獄へ落とされた。

 獄吏ごくりは知らぬ存ぜぬを貫き通した。そして、理不尽に投獄された者達が檻から出され消えて行った。よもや釈放され自由の身になったのではなどと、甘い期待は抱かない。彼等は間違いなく、この世から消されている。

どす黒い権謀術数けんぼうじゅつすうが宮廷で渦巻いている。父の安否が気になるが、今は無事を祈念することしかできない。

「くそっ!」
 汚穢おわいに塗れた床を拳で叩く。焦燥が胸を焦がす。早く父の危急を白起に伝えなくてはならない。

「おい!ここから俺を出せ!」
 鉄格子を叩く。巡回する獄吏は、昏い目を向けると、陰鬱とした闇の中へと消えて行った。恐らく遠からず、己にもその時がやって来る。

もうこの獄舎の中には、王翦しかいないのだから。檻の隅で座り、膝を抱き、瞼を閉じた。ただ死を待つだけの自分が恨めしい。閉じた瞼の隙間から、涙が溢れだしてくる。

遠くの方で、小さな異音を耳にした。顔を上げる。獄舎は常に闇だった。明かりを灯されることもない。常に陰鬱とした空間が漂い、投獄された者の精神こころを闇が削る。
しおりを挟む

処理中です...