白狼 白起伝

松井暁彦

文字の大きさ
上 下
265 / 336
血意

 九 

しおりを挟む
「武安君」
 呂不韋は真っ直ぐに白起を見つめた。

「この御方は、趙に人質として出された東宮とうぐうの御子異人いじん(後に子楚しそと名乗る)様で御座います」

「なっ」
 言葉に窮した。世俗離れした気配を放っていると思っていたが、まさか秦王の孫であったとは。

「私は趙へ商いをしていた折、偶然にも異人様と巡り合い、趙の人質の身であった、異人様を内密に連れ出したのです」

「わ、私はもう趙に戻りとうない。あそこでの暮らしは、ひもじく辛かった」
 異人は吃音きつおんの人のように告げると、さめざめと泣き始める。

「公子ともあろう御方が、おいたわしや」
 呂不韋は憐憫れいびんの眼を向け、しくしくと泣く異人の肩を抱いた。

「で、お前はそいつをどうするつもりだ?」
 公子と知っても尚、不遜な態度を取る白起に、異人は驚愕している。

「私は公子であるぞ。な、何なのだ!?その無礼な態度は」
 真っ赤な眼のまま、白起に指を突き立て弱弱しく喚く。凄味を含んだ眼で睨み付ける。

「ひぃいい」
 小さな悲鳴を上げ、呂不韋の広い胸に顔を埋める。

「お前は生来からの商人だ。見返りも無く、使い道の無さそうな餓鬼を、危険を冒してまで咸陽に連れて帰ろうとするはずもない」

 呂不韋は胸に顔を埋める、異人の頭を優しく撫ぜながら、不敵に笑った。

(やはり。何か企んでいるな)
しおりを挟む

処理中です...