白狼 白起伝

松井暁彦

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怨讐

 十二

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 翌日。宿舎の前に豪奢な四頭立ての馬車が停まった。

「張禄先生のご厚意で御座います」
 既に馬車の前に控えた、范雎が手を取り、須賈を馬車の中へと誘う。続いて范雎は軽い身のこなしで、馭者の座につく。

「では参りましょう」
 人の良い笑みを浮かべ、范雎は自ら馬車を馭した。馬車が余りにも豪奢なので、行き交う人々から好奇の眼が注がれる。ちらほらと市井の者に混じって、役人達の姿も見える。ふと訝しく思った。役人達が馭者である、范雎を見遣って恭しく頭を垂れるのである。

(用意して頂いたのは、大層立派な車だ。役人共は馬車の乗っているのが、余程の高官と勘違いしているのだろう)
 と自己で疑念を解決し終わる頃、馬車は唐突に停まった。

「相府に到着致しました。暫く此処でお待ち下さい。宰相の君にお取次ぎ致します故」

「おう。頼む」
 そう言って范雎は、相府の中へと消えて行った。だが、待てど暮らせど、范雎は戻って来ない。流石に痺れを切らし、門の前に立つ衛兵に尋ねる。

「范雎が出て来ないのだが、どうなっておる?」
 二人の衛兵は、互いに顔を見合わせる。何処か小馬鹿にするような雰囲気まである。

「范雎などという者は存じておりませぬが」

「何を馬鹿な!?先に入って行った、みすぼらしい男のことではないか」
 苛立ち語気を強める。

「何を申される!先ほどの御方は宰相張君であらせられる!」
 耳を疑った。同時に外界を拒絶するが如く閉まっていた、門が勢いよく開いた。

 数十名の衛兵を引き連れ、金の刺繍が施された絹の衣装を纏う范雎。
 
 思考が停止した。

「者ども。この不敬なる者を拘束せよ」
 竹を割るような一声。嫣然えんぜんと微笑んだ范雎。
 
 未だ理解は追いつかない。狼狽え、四顧しこする。具足を鳴らし、衛兵が囲う。

 馬車から乱暴に引き摺り降ろされ、地に叩きつけられる。
 
 蟀谷こめかみに強い衝撃が走る。矛の柄で打擲ちょうちゃくされ、意識は刹那にして闇へと落ちて行った。
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