白狼 白起伝

松井暁彦

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怨讐

 十

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「誰だ?」
 しんだいから上半身だけを起こし、擦れ眼で扉の方を見遣る。

「宿の下男であります」
 すっと扉の隙間から姿を現したのは、蓬髪ほうはつの腰が曲がった中年であった。

「何か?」

「夕食のご用意が整いましたので」

「ふむ。ご苦労」
 下男が歯を見せて笑った。気味の悪い笑みだった。前歯は歪に欠け、不規則な山脈の稜線のようだ。下男が不自然に笑みを収める。垂れ下がった蓬髪の隙間から覗く双の眼。ふとこの下男に既視感のようなものを感じた。追憶の触手が、男に絡む。

はっとする。かつて従者として傍に置いていた、范雎と酷似している。
「まさか」思わず口に出す。

 他人の空似である。范雎は斉と通じ、魏の宰相であった魏斉ぎさいに半殺しにされた後に消えている。生きていても不思議ではないが、此処は秦の咸陽の宿舎だ。有り得ない。其れに奴は逃げたとはいえ、魏斉の手下に瀕死の重傷を負わされていた。何処かで野垂れ死んだと考えるが妥当だろう。

思考を追い払うように、頭を振るい、立ち上がる。瞬間。下男と眼が合った。

「お、恐れながら須賈殿ではありませぬか?」
 胸が早鐘を打つ。

「い、如何にも。何故、私の名を?」

「だ、旦那様。わ、私で御座います。以前、お仕えしていた范雎で御座います」
 訥々とつとつと語った范雎はおろおろと涙を流し、覚束ない足取りで歩み寄ると、須賈の手を包み込んだ。

「お、お会いしとう御座いました」

「本当に私の知る、范雎なのか?」

「はい」
 范雎が仮に生きていたとしても、彼を売った己を憎んでいる違いないと思っていた。だが運命の悪戯で再び巡り合った、范雎の反応は意外過ぎるものであった。

 それから、范雎は秦に入るまでの事を涙ながらに語った。
 
 行き倒れていた范雎を鄭安平てんあんぺいという若者が拾い匿ってくれたこと。魏斉の追っ手を逃れるように、秦に入り、この宿舎の主人に買われ、下男として働くようになった経緯まで。


かつて従者でありながら、范雎は主である須賈を越えるほど有能であり雄弁であった。故にその才能を嫉み、斉と通じていると魏斉に流したのである。しかし今は才能に恵まれ、饒舌であった范雎の姿はない。
 
弊衣蓬髪へいいほうはつのみすぼらしい、冴えない中年である。最早、彼の存在に微塵の危機感も感じない。彼を追っていた魏斉も、今は范雎の存在など忘却している違いない。

「今更ながら、旦那様には私が斉とは通じてなどいなかったと申し上げておきます。ですが、斉王から宝物を下賜されたのは事実。今思えば、旦那様が私を斉の間者であると疑いを向けるのも無理はなかったと思います。全てが私の過失であったのです。あの頃、私は驕っていたのかもしれませぬ。あの出来事は、私を諫める為の天誅であったのやもしれませぬ。不思議と今は魏斉殿や旦那様には感謝しているのですよ。今はこの宿舎の一下男として働いておりますが、地位や名誉より大切なものが何か、今は分かったような気がするのです」
 まるで聖人の境地のような帰結であるが、范雎が嘘を付いているようには見えなかった。
 
 ひとしきり范雎は語り終えると、涙を拭い問うた。

「して、旦那様は何故咸陽に?」
 漏らして良いものか逡巡したが、所詮は下男。
 
 更にかつての悲惨な出来事に都合の良い解釈を導き出した、范雎に寸毫すんごうの危うさも感じない。
 
 気づくと口が滑っていた。
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