白狼 白起伝

松井暁彦

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影王

 十二

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 裏に何かはあると勘繰ってはいた。武王の死因にも曖昧模糊あいまいもことした点が多い。武王は若くして散華したが、王としてはかなり有望視されていたようだった。

肝も太く、明晰で、豪傑でもある。未来への展望も確固たるものを持ち合わせ、天下統一に向かって血道を上げていたという。

だが死因は周へ向かう道中に、酒に酔った勢いで力士達と力比べをする為に、かなえを持ち上げた勢いで脛骨けいこつを折り、後に死んでいる。将来を嘱望しょうぼうされた英雄王にしては、あまりにお粗末な最期だった。

武王の気風を顧みて史書が語る、武王の最期を寸毫すんごうの疑いを抱かぬ者などいるのだろうか。武王の記述には、何故か曖昧とした点が多い。之は現政権が都合の悪いことをひた隠しにしているとしか、范雎には思えなかった。

 あえて范雎は己の内に燻る疑念を秦王に告げた。今や秦王には、己しか味方はいない。微塵の警戒心もなく、秦王は口を開いた。

「母上の謀だったのです」
 秦王の母。宣太后は自身の息子に王位を継がせる為、密かに私兵を蓄え、当時王であった武王を弑逆したのだという。

大方、予想通りの話であった。今は隠棲した身に近い、宣太后も長きに亘る間、垂簾政治すいれんを行ってきた。

「なるほど」
 別段、嫌悪感なども抱くこともない。権謀術数渦巻く宮廷内での闘争など、どの時代、どの国でも同じような血腥いことが平然と行われている。

「白起も叔父も、当時兄上に仕えておりました。私は燕に人質として出されていた為、兄とは面識がありませんが、知る者は兄が生きていれば、今頃天下は治まっていただろうと口々に申します」

「武王は天下泰平の世を築くことを望んでおられ、武王の薫陶(くんとう)を受けた穣候と武安君は宿願を果たす為に奔走しているということですかな?」

「ええ。恐らく。叔父上はともかく、白起は私のことを大層憎んでいるはずです」

「故に早々に始末してしまいたいと」
 再び秦王の眼に戦慄が走る。

「白起に牙を剥ければ、奴は刺し違えてでも、私を亡き者にしようと考えるはずです」

「ふぅむ」
 考える素振りを見せる。実際、白起を内に抱えている危険性は理解できる。獅子身中しししんちゅうの虫とは正に彼のことであろう。だが、彼には国家として理由価値がある。

 病み衰え今や権勢だけが拠り所となっている魏冄とは違う。巧く遣えば、范雎自身が天下の王となる足掛かりを築いてくれる。今の范雎には天下を睥睨したいという強い想いがある。それは決して天下万民の為などではない。
 
己が天下を睥睨する、万乗の王となれば、己に非情な仕打ちを与えた天下へと復讐できる。いずれはこの愚鈍な王を弑逆し、己が秦の王位を奪い、天下へ号令する。やがて連綿と続く東周を滅ぼし、天子として立つ。
 
天子を弑して、己が帝として中国を治めれば、天譴思想は滅ぶ。天に叛心を抱く、己が帝となるのだ。其処には、古代から信じられていた天命などない。

 不敵に笑む。覗く欠けた歯。

「大王様の苦衷はお察し致します。ですが武安君にはまだ利用価値があります。大王様とて、天下を切望されておられるはず」六国を滅ぼし、天下を治めることが叶えば、中国全土の金銀財宝と美女が、大王様の物となるのです」と付け加えてやると、秦王はあからさまに頬を上気させ、鼻の下を伸ばした。

「天下の足掛かりを築くには、軍神白起の存在は不可欠。故に武安君を始末するならば、足掛かりを得た後でも遅くはありますまい」

「だがー」
 白起への恐怖。天下が齎すであろう、無限の豊穣が秦王の内にある矮小な天秤を揺らす。

「では、こう致しましょう。次の戦が武安君の最期の戦となる」

「白起の最期―」

「左様です。最期に相応しい大舞台を与えてやるのです。願わくば、穣候等を放逐して直ぐに舞台を整えてやるのが賢明です。大王様自ら勅命で出陣を命じ、武安君に反旗を翻す間も与えないことです。そして帰還後。充分に疲弊した武安君を討つ」

「で、できるのか!?」
 范雎は綽綽とした表情で、恭しく頭を垂れる。

「私めにお任せください。必ずや大王様の悲願を果たして見せましょう」

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