白狼 白起伝

松井暁彦

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影王

 五

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 須賈が宰相魏斉に讒言した、その日の夜。
 
 范雎が母と共にひもじく暮らす家屋の周囲を、魏斉の私兵が囲った。

「母上は此処に」
 時は深更。外の異様な物々しさを察知し、范雎は床から起き上がると、母を残して外の様子を見に出る。
 瞬間。戟を携えた兵士達が家屋の中に雪崩れ込んでくる。

「一体何の騒ぎですか!?」
 質問に答えることなく、無表情の兵士達が土足で堂間に上がり込むと、戦慄する母の痩躯を無理矢理に抱きあげる。母も動揺しているが、范雎自身も訳が分からない。

「母を離してください!」
 母の元に駆け寄ろうとするが、周りを取り囲む兵士が躰を羽交い絞めにする。

「母親は必要ない。殺せ」
 低い人間味を欠いた声が轟いた。玄関口を見遣ると、見るからに高貴そうな成りをした中年の男が一人。その隣には主の須賈の姿がある。

「旦那様―。之は一体―」
 言葉を切った。范雎は馬鹿ではない。瞬時に情況を把握した。

(旦那様が私を売った)
 斉に逗留していた頃より、主の対応に険のようなものが含まれていた。思い当たる節はある。斉王は主を差し置いて、己との謁見を望み、斉の高官達も同様であった。

(なんと醜く小さな男なのだろうか。己の嫉みで弟子を売ろうとは)

「宰相様。あの若者が范雎であります」

(宰相だと)
 絹の服を纏った、中肉中背の男を見遣る。彼は鼻を絹の布切れで覆っていた。

「うむ。しかし、下賤の者の住処とは酷い臭いがするものよ」

「左様です。宰相様」
 須賈は手もみをしながら相槌を打つ。

「小僧には真実を吐かせるとしてー」
 魏斉の眼がぬるりと脅える母を捉える。
 
 兵士が抜刀。

「お待ちを!母は何も関係ありませぬ。どうかご慈悲を」
 宙吊りにされながら滂沱ぼうだの涙を流し、何度も母の助命を乞うた。
 
 魏斉が鼻で嗤う。

「やれ」

「やめてくれ!母に手は出すな!代わりに何でもする!奴隷にだってなる!だから」
 悲鳴もなかった。ただ静かに兵士の鋭い剣は、一撃で母の心の臓を捉えた。涙で潤んだ母の眼。消えていく。命の炎が刹那にして。

「あぁああああああああああ」
 慟哭。

「連れていくぞ」
 兵士達が泣き叫ぶ、范雎を引き摺っていく。

「殺してやる!お前等全員!この手で!」
 紅涙で濡れる頬。闇夜に浮かぶ月は、范雎の殺意に呼応するように、妖しい赤い色を放っていた。
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