白狼 白起伝

松井暁彦

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影王

 一

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 范雎はんしょ咸陽宮かんようきゅうの客室で結跏趺坐けっかふざし、静かにその時を待っていた。

 熟柿じゅくしの時である。秦王への謁見すら叶わないこと一年。更に一度、謁者えつしゃである#__おうけい__#を通して饗応に招かれたが、席には数多の#説客_ぜいかく__#が招れており、無名であり布衣ほいの身に過ぎない己には、秦王の御前に出る機会など与えられなかった。

 だが、饗応の時をむくれて無にした訳ではない。収穫はあった。范雎に用意されたのは、最下位の下座であったが、その位置からでも最上席に座する秦王嬴稷えいしょくの相貌は窺えた。

単刀直入に述べると醜い容姿であった。しかし、生来からの醜さではない。長年に亘る、無理な荒淫と狂宴濫行きょうえんらんぎょうの日々が齎したものである。

その日も秦王は浴びるように酒を煽り、美麗な踊り子達を左右に侍らせていた。范雎は酒を舐めるように飲み、視線は秦王から外さず、彼の観察に徹した。

秦王は酔眼朦朧すいがんもうろうとして終始機嫌は良かったが、范雎には分かった。彼は何かに脅えているのだと。酒と女は気を紛らわせる薬に過ぎない。

肝は小さく、利発な訳でもない。明らかに王器を備えていない王であるが、不思議と国は富んでいる。何故か。王を支える連枝が有能なのである。
 
そして、柱石として名が挙がってくるのは、秦王の叔父である宰相魏冄ぎぜん。軍の総帥であり、不敗の将白起はくきであろう。今や王の威光より、彼等二人が放つ威光の方が強い。となれば、秦王が何に懼れを抱いているのか想像するのは容易い。

ましてや、この饗応の日。白起と魏冄率いる秦軍は、魏と趙の合従軍に華陽かようの地で勝利をおさめている。併せて魏領と趙領の一部を獲得し、その武功は赫赫かくかくたるものだ。范雎の眼には、秦王が上機嫌で振舞っているというより、荒れているように見えた。

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