白狼 白起伝

松井暁彦

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澱み

 十八

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 敵の斥候に捕捉されない為に、主戦場から三十里離れた丘隆地帯の岩場の影に、軍を幾つかに分けて潜ませていた。火を焚くことは許さず、岩の隙間から差し込む侘しい月光だけが手許の頼りとなる。
 
白起は夜目が利く。例え一条の光もない闇の中でも、潜む兵士達の表情も確認できる。皆が鬱々とした表情で、干し肉を口に運んでいる。彼等は咀嚼音すら立てないように訓練されている。戦場の動きだけではない。敵の斥候の捕捉を免れる為の訓練も嫌というほどに積んでいる猛者達だ。

 だが、そんな猛者達の表情からも拭い切れないほどの濃い疲労が窺える。それも当然。七百里を最速で駆け抜け、華陽の戦場に到着してからというものの、ほぼ休みなく連日戦場を駆け回っている。兵馬共に限界だった。最早、傷を負っていないものなどいない。白起ですら全身に無数の浅傷を受けているのだ。

「殿。お休みにならないのですか?」
 暗闇の中で眼を開けていると、従者の王翦が傍らに立った。もたれ掛かる岩に、同じように凭れ、座ることを促す。遠慮がちに並んで腰を下ろす。

「俺はいい。お前は少しでも長く眠っておけ」
 王翦も限界だった。少年ならではのふくよかだった頬はこけ、眼は蚩尤しゆうの如く赤くぎらついている。だが、よくついてきている。天狼隊の兵士を比べると、明らかに練度は低いが、躰の頑強さには天賦のものがあるようだ。

「明日で決まる」

「えっ?」
 王翦が眼を丸くする。

「明日本隊が到着しなければ、俺達はあの大軍に呑みこまれるだろう。趙の賈偃という男は慎重な男だ。此方の疲弊が極限に達するのを忍耐強く待っていたのだからな」

「賈偃は明日、本格的に仕掛けてくると?」

「ああ。その為に奴は三万もの兵を犠牲にしたのだ。凡庸だが手堅い男だよ。賈偃は」

「ですが、その凡庸さが今は憎いですね」
 白起は一度、深く息をつく。

「来ると思うか?」

「来てもらいですね。でないと、俺の策で殿や義父上が死ぬことになる。それだけは勘弁です」
 ははと王翦が力なく笑う。

「お前は死が怖くないのか?」
 暫くの間。低い唸り声が聞こえる。

「そうですね。殿にこうして、明日が生死を分けることになると告げられても、不思議と俺の心は凪いでいます。きっと俺の心は一度死んでいるのでしょう。故郷で友と母を失ったあの日から魏翦という少年は死んだのです」
 彼の言葉に嘘はない。彼の眸は表面上、異様に勁い光を放っているものの、その奥は深海のように蒼い。

「王翦。お前は独りで逃げろ」

「嫌です」
 峻拒しゅんきょする。

「だろうな。言ってみただけだ」
 白起は微苦笑を浮かべる。

「殿は死を恐れていないのですか?」

「餓鬼の頃から死とは常に隣り合わせだった。だからこそ、俺は己の死にも他人の死にも心を動かされない。俺にとって死とは呼吸に等しい。だがー。俺にとって武王と魏冄。お前の死は違う。お前達の死はありふれた死であってはならない。殺戮者でしかない俺にも役目があるように、お前達父子にも天に与えられた役目がある。お前達が死ぬ時は、その役目を充分に果たした時だ」

「殿が語る天下の王としての役目ですか」

「ああ。だからお前にはこんな所で無様な死を遂げてもらいたくはない」

「殿は信じておられるのですか?父と俺が天下に相応しい王であると」

「信じている」
 一拍の間があった。王翦は自身の擦り切れた掌を見つめる。

「ならば尚更、俺は逃げません。殿が信じるものが天命ならば天は俺を生かすはず。俺が果てれば、俺も所詮そこまでの男ということですよ」
 王翦の言葉は正しかった。己と王翦が共にここで死ねば、信じ縋ってきたものが総て泡沫うたかたに帰す。だが王翦を生かすことができれば、彼にはやはり神の血が宿り、加護がある。

「分かった。もう何も言うまい」
 会話を切り上げ、瞼を閉じると直ぐに闇の住人が意識の核へと白起を誘った。
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