白狼 白起伝

松井暁彦

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澱み

 十七

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「損害は!?」
 賈偃は大童おおわらわで損害を調べさせた。報告を聞いて唖然とする。

「五千だと」
 たったの五刻程度の猛撃だった。五刻で二万もの兵を葬り去ったというのか。

「化け物が」
 開いた口が塞がらない。天狼隊の動きは戦理せんりから逸脱している。
 
 倉皇そうこうとしている間に、魏軍総大将の芒卯がやってきた。

「先の騎馬隊は何だ!?」
 被害を受けたのは、後方を承っていた趙軍だが、先の閃光の如く駆ける騎馬隊の報告は早々に魏軍にも伝わっている。

「白起だ」

「ば、馬鹿な」
 芒卯の顔は見る見る蒼褪めていき、瘋癲ふうてんをおこしたかのように右往左往し始める。

「あり得ない。穣から秦軍が出発してまだ五日も経っていない。それに華陽に至る道には、廉頗が伏せているはずではないのか!?」
 芒卯は唾を盛大に飛ばして、一瀉千里いっしゃせんり一に捲し立てる。白起率いる一万騎は既に退いている。斥候を方々に放ち、居場所を探らせてはいるが、
潜伏先を探り当てあられないでいる。

また同様に、廉頗の元から早馬が報せを寄越した。行軍中の秦軍への奇襲に成功したとのことだった。だが、やはり秦の本軍は埋伏を警戒しており、与えられた損害は軽微だという。

「現状から推測すると、白起は埋伏の存在に気付いていた。そして、秦の本隊を囮に遣い、南へ迂回し最速の一万騎だけを率いて向かってきたのだろう」

「では、十万を越える本隊とは分断されているということか?」
 芒卯の眼が狂ったように照る。

「ああ。だが、本隊も埋伏を警戒していたようだから損害としては軽微だ。それに、廉頗も倍以上の兵力を相手に長い期間、抑え込めるとは思えん」

「ならば本隊が合流するまでの間に白起を叩いてしまえばいい。所詮は一万だ。一万の騎兵に何ができる」
(そう。巧いことは運ぶまい)賈偃は独りごちる。
 
 正にあれは光だった。光は変幻に形を変え、此方が攻め手に回る、水の如くいなす。
 
 孫武の兵法を思い出す。(兵の形は水にかたどる)

「白起の処理はお前に任せよう」
 芒卯は横柄に告げて、傲然と去って行った。

「ちくしょう」
 敵は一万だ。此方は趙軍だけでも十万を越えている。だがどうしてだ。あの一万に勝てる気が微塵もしないのは。


 翌日から華陽攻めを阻むように、白起の一万が縦横無尽に戦場を駆け回り始めた。
 
 初日より動きが緩慢になったものの、暁から暮靄ぼあいが空にたちこめる間まで、ひたすらに戦場を搔き乱すようになった。動きは依然として早く、巧く捉えることができないでいる。それでも確実に一万は数を減らしていた。


幾ら白起が無敗の軍神と讃えられていたとしても無敵ではない。連日、一万で一日中駆け回っていれば、兵馬も疲弊し脱落者も出てくる。此方も既に三万は白起に討たれていたが、初日のように肉薄を許すようなことはなくなった。少しずつであるが、確実に白起の弱体化には成功している。
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