白狼 白起伝

松井暁彦

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澱み

 八

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「少し院子なかにわに出よう」
 今にも取っ組み合いになりそうな気配を察して、従者の王翦が不安を露わに付き従おうとするが止める。

「外せ」
 命じると粛々と堂間へと戻っていく。院子は緑に溢れ、中央には澄んだ色をした池がある。池の畔で待っていると、杖の乾いた音が聞こえてくる。

「何をむきなっている?まるで聞き分けの悪い餓鬼のようだぞ」
 丸まった背中。乱れた呼吸で絶えず大きく動く肩。其処には剛健であった、かつての魏冄の姿はない。

「息子に託さなくてはならない。わしのすべてを」

(なるほど。そういうことか)

「戦なら俺が教える」

「戦場には駆け引きがある。駆け引きならばお前よりわしの方が上手じゃ」

「だとしても、行軍中にお前が死ねば元も子もない」

「まだ死なぬ。わしには分かる。わしの死期はもう少し先じゃ」
 容貌からは憔悴しきっている様子が滲み出ているが、眼はかつての鋭さを保っている。

「もう少し先では困る。お前には生きてもらわねば」
 魏冄が小さく相好を崩した。

「分かっているはずだ、白起。わしはそれまでもたぬ」

「やめろ」

「だからこそお前は翦を探し出したのだろ」

「お前は死なない」
 心が何かに蝕まれているような感覚。昏い闇に覆われていく。この感覚を知っている。武王の死を直感した時のものと同じだ。

「頼む。白起」
 水面に映る己の顔。其処には今にも泣き出しそうな憐れな男の顔が映っていた。
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