白狼 白起伝

松井暁彦

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澱み

 二

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 翌朝。益のない朝議を終え居室に戻ろうとすると、近習が耳語じごした。

「うむ。分かった。通すがよい」
 謁間に謁者えつしゃ王稽おうけいが通された。王稽は以前より魏に派遣して使者の一人である。現在、魏と秦の関係は良好とはいえない。白起により幾度も領土を侵された、魏王の積怨せきえんは烈火の如くであろう。 秦の臣下である王稽も火の粉を被るのを危惧して、咸陽への帰還を選んだのであろう。

「面を上げよ、王稽。大儀であった」
 長揖ちょうゆうし王稽は脂が照ったでっぷりとした面を上げた。儀礼的な挨拶を終えた、退出を促そうとした時である。

「不躾を承知しながら、大王様にお願いしたき儀が御座います」

「ふむ」
 生意気な申し出であるが、長期に亘り敵国に身を置いていた望みである。一つくらい聞いてやってもいい。

「なんなりと申せ」

「大王様にお目通り願いたい者がおりまする」
 意外だった。王稽は如何にも強欲そうな人相をしているので、恩賞を期待すると予想していたがー。

「孤に引き合わせたいとは。それほどの賢人か?」
 王稽は肯首する。

「名は張禄ちょうろくと申します」
 説客ぜいかくが理論を武器に諸国を駆け回る時代である。かつて父に仕えた張儀が正に、説客の嚆矢こうしといっていい。張儀が弁舌の鋭さで富を築き上げると、有象無象の説客が理論武装を競った。有能な説客は諸侯に重用され、舌先で栄華を極める。故に高名である説客の雷名は、天下へと轟く。だが王稽が真剣な眼差しで推挙する、張禄などという説客の名など耳にしたこともない。

「聞かぬ名だ」

「張禄先生は故あって数年の間、身を隠しておられました。ですが、先生の知見は真のもので御座います」

「何故、張禄は身を隠していた?」
 王稽が眼を細める。

「魏で命を狙われていたからであります」

「何故だ?」

「今はまだお話することはできません。今も張禄先生は命を狙われている身。咸陽にも魏の間者が潜んでおりましょう」

「都合の良い話だな。己の素性も披瀝せん男を信用しろとは」
 之にはただ王稽は謝意を述べた。

「先生はこのように申しておられました。秦王の国は累卵るいらんの如く危うい。私を用いて頂ければ、秦王の国を立て直すことができるだろう。ただし、書面では方法を語ることはできないと」

 なるほど。張禄はわざと嬴秦を貶め、婉曲に謁見の機会を与えるように仄めかしている。王を挑発しているのだ。度胸はあるのだろう。だが、大層な自信が気に入らない。

「承知した。張禄先生には客室を与える故、おって沙汰を送ると伝えよ」

「有難く」
 王稽が大仰に低頭する。生意気な説客だが、一度くらいは会ってやってもいい。だが、嬴稷は強迫観念を慰めるように酒と女に走り、王稽が同伴した張禄なる説客の存在を一年以上も失念することになる。

 だがこの張禄―。真の名を范睢はんしょが歴史の檜舞台に現れることによって、白起と魏冄の運命は大きく狂わされる。
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