白狼 白起伝

松井暁彦

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燻り

 九

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 魏冄を総大将とする魏討伐軍の総数は十五万にも及んだ。上郡に留まる白起の駐屯軍は総勢で五万である。

「やはり俺が代わりに出る」
 具足を纏った魏冄は土気色の顔に苦悶の皺を刻みながら、ゆっくりと胡床に腰を落ち着かせた。

「いいや、駄目だ。総大将が入れ替わるなど軍法会議ものだ。わしもお前も処断される」
 魏冄は訥々とつとつと言葉を絞り出していく。

「どうやら甥御はわしに死んでもらいたいようだ」
 当然と言えば当然の話だ。秦王に実権はない。事実、国を回しているのは魏冄と白起と断言してもよい。今まで断じて傀儡として身をやつしてきたが、秦王も壮年期を超えて危機感を覚え始めたのだろう。だが嬴稷が王としてのあるべき力を取り戻したとして、現状のように国が成り立つかと問われればそうではない。彼に王器はなく、王として万民の導き手となることはできない。

 白起は相当に苛立っているようだった。表情に焦燥が窺える。

「向寿が失踪したようだ」

「そうか」
 水を向けたが白起は曖昧に答えただけだった。

「お前だな」
 沈黙。

「話してくれ。お前は何を企んでいる?わしに内緒で姉に賄賂を贈り続けているのは知っている。結果、垂簾政治すいれいせいじを行って権勢を振るっていた姉は欲望の化身となり堕落した。別に責めている訳ではない。ただ、わしにはお前が甥御を徐々に締め上げているように見える。向寿の件もそうだ。わざわざ殺す必要はなかった」
 長い嘆息が漏れた。白起は面を伏せていたが、徐に膝をつき魏冄に目線を合わせた。

「王になれ。魏冄」

「何だと」
 驚愕の余り胸が締め付けられ、酷く咳き込んだ。

「お前が王になるんだ」

「突拍子のない話だ」

「嬴稷が玉座に座したままでは、武王の宿願を果たすことはできない」

「その為にお前がいる」

「奴には天下を統べる器量はない」

「一理はある。だが話が飛躍し過ぎている。わしも同様に王の器ではない」

「いいや。違う。お前は王の器を備えている。穣ととうはお前が領主となってから大いに富んでいる。領民は皆、一様に飢えを知らず卑屈ではなく、豊かなで不羈ふきの心を有している。いつか俺も穣と陶を見て回った。その時確信したよ。ああ、武王が創造したいと願っていた新世界の形なのではないかと」

「確かに穣と陶は現状豊かではある。だが、所詮は県規模に過ぎない。県と国の運営では大きく異なる」
 白起は秦という一国ではなく、天下を統べた後の世界を己に託そうとしているのだ。有り得ないと素直に思った。己は王を輔弼ほひつする存在に過ぎない。
 
 魏冄自身、楚の公室の血が流れているが、楚の血胤が、秦の万民に受け入れられるとは思えない。国を治めるならば、由緒正しき血胤が必要となる。嬴稷に素養がなくとも、僥倖に恵まれ彼の子等に王器を備える者が現れるかもしれない。無数に枝分かれしているといっても、嬴稷にも武王と同じ血が流れている。蓋世がいせいの英雄王が再び現れる可能性はある。

「それにな、白起。お前が戦に勝ち続け六国を滅ぼし、天下を平定した後にわしが存命だとしてもこの躰だ。とてもではないが、壮大な国を治めることなど叶わんよ」

「しかしー」
 白起は声を荒げていた。初めて見る顔だった。目尻は垂れ下がり、今にも泣きだしそうなのである。 魏冄は薄く微笑み、枯れ枝のような手を白髪の上に置いた。

「感謝するぞ、弟よ。それほどにわしの身を按じてくれるのだな。だが、わしに王は務まらない。跡を継ぐべく子もいない。跡継ぎが居なければ、玉座を求めてまた力を持った者達が争うだろう。国が連綿と有り続けるには、胤を宿す力は必要不可欠なのだ。胤を持たぬわしには王となる資格はない」
 白起は顔を伏せていた。長く伸びた前髪が影を作り表情は窺えない。

「分かった」
 立ち上がり黒の外衣を翻し、踵を返した。

「お前が次の秦王を支えてくれ」
 それには何も答えなかった。ただー「死ぬなよ」と白起は告げて去って行った。

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