白狼 白起伝

松井暁彦

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光輝の兆し

 十五

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 軍事も一部であるが、信頼して任せることのできる将校も育ってきている。子飼いの胡傷、王齕、王騎、李莞は万兵を率いるに値する将軍となった。

また古参の司馬錯は歴戦の古強者であるし、今年に入って再び楚の江南地帯を攻め奪り、此処に黔中郡けんちゅうぐんを置いた。楚は続けて黔中を奪われたことで、再び秦の圧倒的な軍事力を目の当りにし、一時的な和睦を請うために上庸じょうようの地と漢江の南の地を献上した。楚王は、陳に遷都を強いられても長期に及ぶ休戦協定は望んでいないようだった。

理由としては、秦が拘束し幽閉先で客死かくしした懐王の一件での怨恨である。だが、幾ら秦が憎くとも楚は当分大きく動くことができないのが実情である。南郡を完全に抑え、不本意ながら楚との一時的和睦がなった今、白起の眼は趙に向いていた。
 
 魏と楚は秦に悉く敗れ疲弊の極みになる。魏を破ってもいいが、これ幸いと合従を計られると厄介だ。となれば未だ充分な軍事力を保っている趙が目先の敵といっていい。斉が窮地に立たされている今、強力な勢力は秦と趙と断言してもいい。周辺諸国は互いが食い合い、国力を削ぐことを望み、傍観の構えに入るだろう。
 
 白起は郢を払い、趙に侵攻する軍備を整え始めた。

「王齕、王騎。お前達に郢を委ねる」
 二人は直立して、白起の命を聞いていた。言うまでなく、楚は郢を取り戻そうとするだろう。白起が軍を払えば、之を好機と攻め込んで来る可能性は高い。

「楚は窮地にある。だとしても油断は禁物だ。奴らの怨みは深い」

「はっ!」
 顔から緊張が窺える。

「頼んだぞ」
 二人の顔を順々に一瞥すると郢を出立した。白起の麾下は天狼隊一万と四万の歩兵から成る計五万である。咸陽に留まっていた蒙鷔が十万を引き連れて合流する手筈になっている。漢水の支流を北上して進んで三日目、奇妙な行商人が白起の元に現れた。
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