白狼 白起伝

松井暁彦

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光輝の兆し

 十

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 白起は怒涛の行軍で楚都郢へ至り、半年もかけずに郢を陥落させた。更には楚の悲劇の象徴とされる懐王かいおう懐王の陵墓に火を放ち、此れを焼いた。

 楚王は都を放棄し、東へと一心不乱に逃げた。白起は楚王に猛追を仕掛け、東の竟陵きょうりょうを抜いた。楚王は襤褸らんるのような姿になるまで追い詰められ、ちんに入り、命からがら逃げることができた。

 之は白起なりの同盟の際に裏切った楚への報復であった。楚は都を奪われ、先王の墓も焼かれ、秦に隣接した西のかたも奪われている。諸国は白起の微塵の慈悲もない報復に震撼したことだろう。趙と魏に放った別動隊も巧く二国を国境線沿いで留め切り、郢の陥落と共に二国も自領へと退き揚げた。
 
 白起は郢一帯の鎮撫ちんぶの為、郢に留まり続けている。狗が寄越す知らせによると、楚の民は白起の暴虐を懼れ、すすんで服従を選んでいるという。白起は手当たり次第に弱者を殺戮する快楽主義者ではない。彼には危険因子を明確に見極める鋭い洞察力がある。

帰順の意を示しても、心の奥に叛心ありと判断すれば、女、子供関係なく処断するだろう。だが、恐怖により心根まで支配が行き届いていると判断すれば、白起は民を生かす。彼も莫迦ではない。奪った領土から税を絞り上げるには労働力。つまり働き手が必要であることは理解している。
 
 魏冄は封地である、じょうの館で南方に居る白起に思いを馳せた。この所、躰の調子が芳しくない。白起が楚に侵攻した頃より、一度政務を離れる決心した。とてもではないが、かつてのように寝る間も惜しまず文机に向かい、思考を延々と巡らせることなどできない。

常時、総身が針で突かれたように痛み、時折胸が張り裂けんばかりの激痛が走る。 呼吸は直ぐに乱れ、思考は無意味な上滑りを繰り返す。

己の不甲斐なさは何とも腹ただしかった。現在一時的な休職の為、宰相の座は空席のままであるが、長く空席が続けばまた邪な狡吏が現れ、宰相の座を掠め取るとも限らない。年明けでの復帰を目指してはいるが、体調は一行に良くはならない。それでも、立ち止まる訳にはいかなった。己に残された時が少ないからこそ、今やるべきことを成すのだ。
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