白狼 白起伝

松井暁彦

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光輝の兆し

 九

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 向寿は思わず眼と鼻を覆った。

(何なのだ。これは)
 丘から睥睨する平野には、生者が一人も存在していなかった。白起の異常性は、耳にたこができるほどに耳にしていた。白起が伊闕いけつの戦いで二十四万もの兵士を斬首したことは、今も記憶に新しくある。

それでも耳に入ってくる情報だけでは、鮮明に鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうたる凄惨な情況を思い浮かべることはできない。だが、眼の前で白起の蛮行とも呼べる殺戮を眼にすると戦慄が走る。
 
 帰還した白起は全身を朱に染めて尚、さつとしていた。空疎な眼は何処か遠い所を見ていたという気がする。この男は人の命に何ら、頓着しないのだと思った。秦王ですら白起の名を口にすると恐怖を顔に滲ませる。彼の闇を目の当りにした今ならわかる。あの男では人ではない。人の皮を被った魔人なのだと。

 
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