白狼 白起伝

松井暁彦

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光輝の兆し

 八

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 錆を含んだような鈍い色を放つ、なだらかな丘を神速で三万の騎馬隊が駆ける。丘を下った灰色の平野に布陣する八万の楚軍。高速の中で刃の如き朔風さくふうを受けながら、敵勢の闘志にばらつきがあるのを見てとった。

 敵兵の顔が恐怖で引き攣るのが視認できる距離。眼前には槍衾やりぶすま―。怖じることなく更に加速。抜いた銀牙が煌めいた。

同時に耳をろうするほどの衝突音。三万の騎馬隊の圧に怖じて、逃げ出した兵士達を背中から通り抜けた軍馬が踏みつけていく。直ぐに楚軍の緊張感が弛緩した。舞う砂塵は血を含み、血塵が漂う凄惨な有様を見て取って敵兵が悲鳴を上げて逃げていく。

逃げ惑う兵士。未だ勇敢にも立ち向かうとする兵士で戦場は混迷を極めていた。今や馬の機動力を潰す為に構えられた横陣は機能せず、ありとあらゆる所に欠落が生まれている。

李莞は欠落を巧く衝いて、中央に肉薄し駆けまわっている。白起は圧倒的な速さと練度を誇る、天狼隊を率いて外側を縦横無尽に駆け回り伸びた叢莽そうもうを払うように敵を断ち切っていく。

 二刻もすれば敵勢は最早軍の態を成していなかった。の目たかの目で退き口を探す敵兵達。だが逃げ場など何処にもなく、死神の鎌のように白起の剣が次々に命を吸い上げる。

 突如、鯨波げいはが起こった。大将を李莞が討ったのだろう。敵の動きが止まった。併せて此方の動きも止まる。頭を失った敵兵達は勝機なしと得物を下ろし、慈悲を求める眼で白起を見つめた。

中央で昂奮冷めやらぬ馬を宥める、李莞と視線が交錯する。白起の麾下は群れだった。故に群れの主である白起の思考を読めないはずもない。

(殺れ)と眼で訴えた。
 
 李莞は視線を薙いだ。刹那。一瞬、動きを止めた騎馬隊が無防備な敵兵に襲い掛かった。断末魔が戦場にこだまする。遮二無二に逃げ惑う敵兵を容赦なく斬り捨てていった。陽が暮れる頃には灰色の平野は屍で埋め尽くされ、砂は血を吸い上げ余すことなく朱に染まっていた。
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