白狼 白起伝

松井暁彦

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合従軍戦 弐

 十三

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「秦の白起」
 全身から血の気が引いていく。何故、この男が眼の前にいるのか。という疑念より第一に脳裏に浮かんだのは、彼の悪逆非道な行いの数々である。理由はともかく彼は己を殺しに来たのだと悟った。

裸のまま弾かれたように、床几に立て掛けてある剣に手を伸ばした。衝撃を感じた刹那、伸ばした手は捩じり上げられ、仰向けに突っ伏していた。

「静かに」

「私を殺しに来たのか」

「いいや。違う。むしろその逆さ。俺はあんたの手助けに来た」

「助けだと」

「ああ」
 如何にも嘘くさい台詞だが、早々に拘束は解かれた。痛む腕を擦りながら、脱ぎ捨てた軍袍に眼を向ける。軍袍を羽織るのを見届けると、どっと胡床に白起は腰を下ろした。確かに殺意はないようだった。暗殺目的ならとうに殺されている。

「目的は何だ?」
 淖歯は何時でも逃げられるように、幕舎の入り口近くに立った。

「言ったろ。俺はあんたを助けに来たと」

「はっ!何が助けだ。そもそも何故、私が貴様の助けなど借りなくてはならん!」
 小刀の刃を指の腹でなぞる、白起が面を上げた。

「あんたは何れ始末される」

「はっ?」

「楚は孟嘗君と繋がっているな」
 胸に穴が開いたような衝撃が走った。

「貴様。何故それを?」

「安心しろ。楚と孟嘗君の密約は外には漏れていない」

「私を強請ゆするつもりか?」
 小刀が脅える淖歯の顔を映し出す。

「いいや。俺は銭には興味がない」

「では、何が望みだ?」
 姿勢を正した白起は、握りしめた小刀を卓の上に突き刺した。

「斉の滅亡」

「滅亡だと?」

「斉軍と楚軍で燕軍に挟撃を仕掛ければ、斉は限り限りの所で踏ん張ることができるだろうな。恐らく孟嘗君との密約では斉救出に成功した暁には、臨淄を含む斉西一帯は楚に割譲するという内容のものだったはずだ」
 白起の両眼は鋭い。そして彼の読みは寸分違わず整合している。

「で、あんたは楚から帰還命令が届くまで臨淄に留まり、王都に蓄えられた財宝や女で快楽に溺れる」
 淖歯は黙していた。反駁の余地もない。

「だが、果たして孟嘗君は楚と交わした密約を馬鹿正直に守り通すだろうか。放逐されたといっても孟嘗君の故郷は斉だ。俺にはそう簡単に臨淄を明け渡すとは思えないな」

「孟嘗君が盟約を反故にするというのか!?馬鹿馬鹿しい。最早、窮地にある斉の援けとなれるのは、我が国だけだ」

「援けとなってもらった後になら、幾らでも反故に出来るさ」

「馬鹿も休み休み言え。今や臨淄は敵の手に落ち斉に残るは十数城だけだ。仮に盟約を反故にし、斉軍が我が軍に襲い掛かったとして勝てる見込みはあるまい。孟嘗君も承知の事実。孟嘗君は再び斉を窮地に落とし込むほど馬鹿な男ではない」

「どうだろうな」
 白起が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「何が言いたい?」

「こうは考えられないか。孟嘗君が密約を交わしている相手が他に存在していたとすれば?」

「まさか。彼は義侠心溢れる男だ。毒婦のような行いは、彼の義侠心が許さないはずだ」

「奴は追い込まれている。祖国を失わんと必死なのさ。いわば死に態。そういう男は何をしでかすか分からないぞ」

「ふん。つまらん。貴様の欺瞞ぎまんには嵌められんぞ」

「楚の本軍が斉との国境線を越えると同時に俺が楚を背後から討つ」

「なっ」
 総身から血の気が引いていく。

「あ、ありえん。孟嘗君は裏で秦とも盟約を結んでいたというのか!?」
 白起の言を否定しているが、話の筋として通っている。完成された策だ。だが、ここで一つ疑問が浮かびあがる。

「仮に孟嘗君と秦が繋がっているとして、何故貴様は私に奴の欺瞞を教えた?」
 白起が黙していれば秦軍は楚の背後をとることが叶う。

「言ったはずだ。俺は斉の滅びを望んでいる。そしてー」
 小刀の柄を握った、白起が淖歯を睨んだ。

「奴の掌の上で踊るなんて真っ平御免だ」
 淖歯は固唾を飲んだ。孟嘗君を信じるか。得体の知れない秦の魔人を信じるか。白起の言葉が真実だと仮定した場合、全てを失う。運良く落ち延びたとして敗戦の責を負い、首を刎ねられる可能性もある。

「莒へ向かえ。斉王の懐に入り込み殺せ。さすれば斉はお前のものとなる」

「斉が私のものー」
 極限の選択に思考が滑る。それでも白起の言葉は頭の芯に強く届いた。

「お前が王になれ」

(私が王になる)
 なれるのか。この私が王に。率いてきた十万の楚軍は恩賞を確約してやれば、私に付くはずだ。軍を取り込み莒にて湣王を弑逆した後に王となれば残りの斉軍は靡く。

「臨淄だけじゃない。斉全土があんたのものとなる。山東の王者はあんただ」
 思考の上滑りが止まる。自然と己の掌を見遣った。何方をとる?いいや。迷う必要もない。
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