白狼 白起伝

松井暁彦

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合従軍戦 弐

 七

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 斉の都。臨淄を包囲する頃には陥落した数は七十城に達していた。総大将楽毅の威光は連合軍にも轟き掠奪、強姦、殺人を行う兵士も殆ど出なかった。意外だったのは白起が大人しく楽毅に従っていたことだ。白起なら合従軍の軍律を放棄し、手当たり次第に破壊の限りを尽くすと思っていたがー。

 斉水の南を沿うようにせつの北を沿う形で進撃し、臨淄に至った秦軍八万を約十里離れた野営地で合流した。秦軍の陣営を訪うと将校達が遣う大幕舎に案内される。蒙驁将軍の姿。そしていつも白起の傍らに侍る子飼いの将校達の姿がある。

「おい。白起は何処だ?」

「おお。廉頗殿」
 蒙驁は柔和な笑みを浮かべて歩み寄って来る。

「それが斉水の渡河を終えてからというもの、将軍の消息が掴めないのですよ」
 嘘ではなさそうだ。僅かながら蒙驁から真実味のある狼狽した風が窺える。

「何だと!?おい、お前!」
 白起の子飼いの一人を呼び寄せる。

「お前は王齕おうこつといったな」
 三十歳程の如何にも頑固そうな男だ。常に白起の側に侍っているのを何度も見掛けたことがある。

「はい」
 慇懃いんぎんに答えるが、廉頗に対する敵愾心を窺える。

「白起は何処へ向かった?」
 王齕は首を竦める。

「我々も狗を放って将軍の消息を追ってはいるのですが、情けのないことに影すら掴めないのですよ」
 狗か。と内心で独白する。白起が抱える黒狗くろいぬという影の集団の名は趙に居ても耳にする。

「黒狗は優秀な軍団だと聞いているのだがな」
 廉頗のあからさまな皮肉に王齕は気色ばむ。

「殿は黒狗の頭領です。狗の追跡を躱す方法など知悉しておられます」

「なら主の居場所は見当くらい付くだろ」

「それは」
 王齕は言い淀む。

(なるほど。本当に白起は何一つ告げずに消息を絶ったのか)

「誰かに誘拐でもされたかな」
 言った後で馬鹿らしくなる。函谷関での白起の覚醒が脳裏に蘇る。あれは天より選ばれた戦士だ。奴に恨みを抱くものなら掃いて捨てるほど存在するだろが、奴を単独で拉致できる者などそうはいない。

「私は殿を十代の頃より知っています。彼は考えなし行動を起こす男ではありません。側近の私達から姿を晦ましている以上、身内に知られたくない何かしらのお考えがあるのでしょう」

「だろうな」
 白起は恐ろしいほどに頭が切れる。そして王齕が語ると同様に、奴には密かに抱いていた企みがあった。その企みを実現する為に、白起は動いている。単独で。独りで成せることなどあるのだろうか。目的は何だ。

不意に白起の口から告げられた孟嘗君の欺瞞ぎまんが蘇る。彼を多く知らないが、廉頗は初めて白起の渋面を見た。蹈鞴たたらを踏む勢いで内心に悔しさを抱いていたのが分かる。

「まさか。奴は孟嘗君の策を潰そうとしているのではないか」
 王齕の眉宇が上がる。白起は斉の滅びを望んでいる。おぼろを纏い霞む一本の筋が脳裏で繋がろうとしている。思い出す。白起の言葉の節々を。

孟嘗君は楚と通じているといっていた。だったら、楚の総大将である淖歯を籠絡ろうらくすれば、斉はどうなる。盾になりうる楚が刃となる。すれば斉は孟嘗君の策の破綻と共に完全に灰燼と化す。可能性の筋が光を帯びた一本の線となる。うなじひるが這うような悪寒が走った。白起に容赦はない。真の意味で六国を滅ぼそうとしているのだ。
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