白狼 白起伝

松井暁彦

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雄飛

 二十

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 斯離率いる合従軍は斉水の西に布陣していた。斉水を渡河すれば、其処は斉の領土となる。大河を挟んで、東岸には斉軍三十万が布陣している。異様な緊迫感が漂う中、白起は本陣となる斉水の東岸にたどり着いた。

各国の精鋭がのべて六十万も揃い踏みである。兵士だけではない。合従軍に集まった将校達も、天下に雷名を轟かせる豪傑ばかりである。

 包囲十里にも及ぶ本陣を白起は、副将の蒙驁もうごうと歩く。

「いやー。此処までの大軍勢が相手だと、斉に同情してしまいますな」
 副将として付けられたのは、蒙驁という斉から出奔した羇旅きりょの軍人だった。白起は彼と戦場で相まみえたこともなく、彼の軍人としての実力を知らない。魏冄の話では蒙驁は仕官先を見つける為、各国を回ったが、どの国も彼をとりたて引き立てることはしなかったという。確かに納得できる所はある。

この男には何処か張り詰める緊張感というものがない。良いようにいえば鷹揚。悪くいえば間抜けに視える。年齢もさして白起と変りないが、早くも薄くなり始めた頭皮が、彼の凡愚然とした容貌を引き立てる。

「斉はお前の祖国だろ。斉は滅ぶかもしれんぞ」
 蒙驁は常時、鷹揚に構えている。長い行軍の最中も彼の態度は徹底されていた。変化に富まない、彼の感情は何処か不気味に思える節がある。鷹揚の仮面を剥がせば、内には想像を絶する苛烈さを持っていたりするのではないか。違う意味で感興がそそられる。故に白起は水を向けるように、斉の危急を仄めかした。

「ふむ。仕方ないでしょうな。戦国の世は殺すか殺されるかです。国も同じ。強者が喰らい、弱者が喰われる。それだけのことです」
 ははと破顔する、蒙驁に悲痛な色はない。むしろ、双眸には冷酷な蒼い光が湛えられている。

(なるほど)と白起は内心で得心した。魏冄が無名の蒙驁を登用した理由が少し分かった気がした。力量はともかく、この男は白起や麾下達と同様につまらぬ情にほだされることはない。白起が何十万、何百万という民の首を刎ねろと命じれば、彼は躊躇なく民の首を刎ねるだろう。祖国の滅びを前に平然としている男なのだから。

(存外遣えるかもな)
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