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雄飛
十九
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手始めに都尉の斯離に十万の軍勢を率いさせ、斉へ向け東進させた。道中、斯離は黄河に沿う形で魏・韓・趙を通過する。通過と同時に三国それぞれの十万近くの軍勢が加わる。
斉の国境線を越えると、腹背の燕軍が攻撃を仕掛ける手筈になっている。あくまで斯離十万は第一陣に過ぎない。間断なく本隊である白起率いる十万が楚軍と合流し、斉の都臨淄までの活路を開く手筈になっている。
白起の副将として斉から出奔した軍人蒙驁が付く。彼の登用は、斉の地理にも明るいこともあるが何より有能だった。先発した斯離軍は洛陽を過ぎ、韓と魏の軍勢を加えている。
白起の進発を前日に控えた夜。深更に帰宅した魏冄の館に、珍しく白起は訪った。客間に通した時、ふと彼が片手に持つ巾着が気になった。
「進発前の挨拶か。珍しいこともあるものだ」
従来白起は何も告げず戦に出向き、勲を誇ることもなく凱旋する。魏冄は白起の凱旋を常に人の口を介して耳にしていた。座るように勧めると、白起は無表情で頭を振った。
怪訝に思い、彼が手にした巾着に眼を向ける。巾着の底には黒い染みができていた。染みには潤いがあり、ぽつりぽつりと黒い水が床に垂れている。不意に腥い匂いが鼻腔を付いた。
「お前―。それは」
「借りは返した」何の感慨もない声だった。巾着を投げ出す。床に落ちた巾着は開かれ、切断されて間もない男の首が転がる。
「これは?」
男の眦は裂けるほどに見開かれ、死の直前の凄惨さを窺える。
「武王を嵌めた男だ」
「呂礼か」
宣太后―。姉と結託し武王を死へ誘った男。確か嬴稷が即位して間も無く、友誼の使者として斉へ派遣されたはずだ。そして孟嘗君が宰相に任じられるまで、斉の宰相を任されていた。
「斉の胡乱な雲行きに慄いたのだろう。斉から逃げ咸陽へ向かう道中に捕えた」
「そうか」
それ以上、言葉は出てこなかった。悔しいことに武王を弑逆し、偽りの権を手にした姉と呂礼への怒りは当時より薄れている。改めて時の経過の残酷さを痛感する。
「俺は一時も忘れたことはない。奴等が犯した罪を。ずっとこいつが秦に帰ってくるのを待っていた。本当はあんたの姉も殺してやりたい。でもそれをしないのは、あんたの肉親だからだ。そしてけりを付けるのは肉親である、あんたであるべきだと俺は思う」
常に空疎な白起の眼は忿怒に燃えている。白起の時は凍結していた。彼の怒りは、武王が死んだ日から色褪せていない。それほどに彼にとって、武王は特別な存在だった。剣を与え、名を与え、生きる意味を与えた。そして武王だけが望んだ。彼が獣ではなく、人として扱われ生きることを。
「俺に姉を殺せと?」
白起は何も答えなかった。だが、真一文字に結んだ唇が答えを訴えている。
「必要なことだ」
白起の灰色の眸を見つめ嘆息した。
「今すぐには無理だ。時間が欲しい」
「忘れるな。俺達には時間が足りない」
ゆっくりと背を向けた白起。だがその実は、魏冄以上に急いているように思えた。彼のみが知っている。天下へと続く階の道のりと長大さを。それは万里を駆けるより、遥かに遠い道のりなのかもしれない。
斉の国境線を越えると、腹背の燕軍が攻撃を仕掛ける手筈になっている。あくまで斯離十万は第一陣に過ぎない。間断なく本隊である白起率いる十万が楚軍と合流し、斉の都臨淄までの活路を開く手筈になっている。
白起の副将として斉から出奔した軍人蒙驁が付く。彼の登用は、斉の地理にも明るいこともあるが何より有能だった。先発した斯離軍は洛陽を過ぎ、韓と魏の軍勢を加えている。
白起の進発を前日に控えた夜。深更に帰宅した魏冄の館に、珍しく白起は訪った。客間に通した時、ふと彼が片手に持つ巾着が気になった。
「進発前の挨拶か。珍しいこともあるものだ」
従来白起は何も告げず戦に出向き、勲を誇ることもなく凱旋する。魏冄は白起の凱旋を常に人の口を介して耳にしていた。座るように勧めると、白起は無表情で頭を振った。
怪訝に思い、彼が手にした巾着に眼を向ける。巾着の底には黒い染みができていた。染みには潤いがあり、ぽつりぽつりと黒い水が床に垂れている。不意に腥い匂いが鼻腔を付いた。
「お前―。それは」
「借りは返した」何の感慨もない声だった。巾着を投げ出す。床に落ちた巾着は開かれ、切断されて間もない男の首が転がる。
「これは?」
男の眦は裂けるほどに見開かれ、死の直前の凄惨さを窺える。
「武王を嵌めた男だ」
「呂礼か」
宣太后―。姉と結託し武王を死へ誘った男。確か嬴稷が即位して間も無く、友誼の使者として斉へ派遣されたはずだ。そして孟嘗君が宰相に任じられるまで、斉の宰相を任されていた。
「斉の胡乱な雲行きに慄いたのだろう。斉から逃げ咸陽へ向かう道中に捕えた」
「そうか」
それ以上、言葉は出てこなかった。悔しいことに武王を弑逆し、偽りの権を手にした姉と呂礼への怒りは当時より薄れている。改めて時の経過の残酷さを痛感する。
「俺は一時も忘れたことはない。奴等が犯した罪を。ずっとこいつが秦に帰ってくるのを待っていた。本当はあんたの姉も殺してやりたい。でもそれをしないのは、あんたの肉親だからだ。そしてけりを付けるのは肉親である、あんたであるべきだと俺は思う」
常に空疎な白起の眼は忿怒に燃えている。白起の時は凍結していた。彼の怒りは、武王が死んだ日から色褪せていない。それほどに彼にとって、武王は特別な存在だった。剣を与え、名を与え、生きる意味を与えた。そして武王だけが望んだ。彼が獣ではなく、人として扱われ生きることを。
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