白狼 白起伝

松井暁彦

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雄飛

 十四

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 秦と同様に大いに力を伸ばしている国があった。孟嘗君田文もうしょくんでんぶん有する斉である。孟嘗君は、斉王(湣王びんおう)に宰相として仕え。辣腕らつわんを振るった。孟嘗君の富国強兵策で国力は増長したのを良いことに、湣王は高圧的な姿勢を諸国に示しているという。
しかし、斉が大いに富んだのは孟嘗君ありきで、斉国内外では湣王ではなく宰相孟嘗君を支持する声が圧倒的に多いという。
 
 西の秦。東の斉。共に頭一つ飛び抜けた様相になった今、魏冄は嬴稷に西帝を号することを進言した。
 帝を号すること即ちー。帝を戴き、唯我独尊ゆいがどくそんと自惚れる東周への警告である。今や韓も魏。宗室ですら秦の権勢に小心翼々しょうしんよくよくとしている。
 
 魏を滅亡目前に追い込んだ今、天下に秦の威光を号するのは肝要だった。秦王が帝を号することで、暗に天子を排斥する気運を高めることにも繋がる。

 嬴稷は魏冄の進言を快く快諾した。甥御は甘い汁には眼がない。此処に至るまでの全ては魏冄と白起が積み上げてきたもの。嬴稷からすればただ女と酒を貪っている間に、帝号を号する機会が転がり込んできたのだ。飛びつかないはずがない。

「今や我が国同様に、東の斉は昇竜の勢いで力を付けています。今、斉を敵に回すのは良策とは言えません。故に斉王にも帝を号して頂くというのは如何でしょう?」
 内殿の王の居室で、女官に四肢を揉ませる嬴稷は渋る。

「帝は二人もいらぬ」

「確かに黄帝の時代に遡ってみても、帝が二人同時に存在した例はありません。しかしながら、今大王様だけが帝を号することにならば、斉は勢いのまま諸国を取り込む、かつてのように合従軍を仕向けて来るかもしれません」
 嬴稷の脂肪で撓んだ顔が急速に蒼ざめていく。
 
 孟嘗君が発起人となった、斉・魏・韓を主体とした五国合従軍の戦が脳裏を過ったのだろう。合従軍そのものを成立させるのは、非常に困難であるが一度合従が成立すれば、一国を滅ぼすだけの力を持つ強力な軍となる。幸か不幸かこの暗君は合従軍の脅威を肌で知っている。

「これは譲歩です、大王様。今は斉王を慰撫し余計な横槍が入らぬよう講じるのです。斉との同盟が成れば、常勝軍白起は同様に戦に勝ち続け、大王様に恩恵を齎すでしょう」
 細い眼に好奇の眼が宿った。嬴稷が欲しているのは天下などではない。侵略し奪った、その土地の財宝と美女である。彼にとって天下など付属品のようなものに過ぎない。何処までも欲望に忠実で盲目的であるが故に、魏冄はこの愚かな王を操りやすいのだが。

「うむ。そうしよう。では叔父上よ。斉へ赴き斉王に帝号を贈るが良い」

「御意に」

「では孤は後宮へ向かうとしよう」
 胤を残すことにだけは殊勝な秦王を見遣って、魏冄は悪心を抱きながらも拝礼した。
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