白狼 白起伝

松井暁彦

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雄飛

 十一

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 白起は久方ぶりに相府を訪れた。

「来たか」
 相府の執務室では、相国として返り咲いた魏冄が待っていた。鼻歌まじりで束ねた髪にかんざしを差す。瀟洒しょうしゃな装束を纏った、魏冄は悠揚と椅子に腰を下ろした。

 疑念が渦巻いている。どのようにして、無位無官の身となった、魏冄が燭寿を蹴落とし相国に返り咲いたのか。明らかに魏冄の洛陽行きが起因しているが、白起には五里霧中ごりむちゅうである。

「気になるか?」
 懐かしむように竹簡と墨の匂いが漂う無機質な空間を見渡すと問うた。
 首肯で返す。

「天子に会ったよ」

「だろうな」

「韓領にある穣という土地を知っているか?」
 穣は韓領にあり、韓に重要な拠点となりうる肥沃な大地を有する領土である。近年、秦が攻め一度奪っているが猛烈な韓の反撃の末、再び韓領に戻っている。しかし、穣の地を渇望するのは秦だけでなく,楚も虎視眈々と狙っており、穣周辺では絶えず小競り合いが勃発している。
 
 白起の答えを待たず、魏冄は続ける。

「穣一帯の複雑な情況はお前も理解しているようだな。穣は韓にとって、重要な拠点に成り得る訳だが、秦と楚と距離が近いばかりに繰り返し侵されている。韓は何として、穣を守り抜きたい訳だが、宗室にとってはそうではない。俺は天子とやらに会ったと言ったな。単刀直入に言おう。謁見して思った。天子など糞くらえだと。最早、宗室の威厳などありはしない。宗室は七国の脅威に怯える、臆病者の巣窟だ。いや、七国の朝貢を活計たっきとしている以上、更に太刀が悪い」
 憚らず宗室を悪罵あくばする、魏冄の表情は嬴稷を悪罵する時と同様のものだ。最大限の嫌悪感が含まれている。

「俺は天子に交換条件を提示した。穣の地を俺に与えれば一帯を秦が宣撫し、決して宗室に匕首あいくちを向けず、楚の侵攻からも宗室を守ってみせると。つまり、穣の地と引き換えに宗室の安寧を守ってやると、天子に提示した。張りぼての威厳を振りかざして飛びついてきたよ」
 なるほど。魏冄は舌峰の鋭さのみで、宗室から穣の地を勝ち取った訳か。確かに七雄の脅威に怯える宗室からすれば、強秦が守護を確約してくれるのだから承諾する理由も分かる。
しかし、この群雄割拠で反故にされない盟約などあるのだろうか。宗室の腐敗とは言い得て妙だ。宗室は己達を取り巻く現状を遥か異国の地の出来事のように傍観しているのだろう。連綿と受け継がれてきた、天子を戴く万乗ばんじょうの大国に実際の所、戦火は届かぬと。
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